第30話 心つなぐ手
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翌日。例によって赤星は普通の生活に戻った。彼に言わせればこの程度のケガに一番効くのは「気合い」らしい。ヤクザみたいだけどコレが一番いいやと、自分で胸にきつめに巻いたさらしは、二晩目も泊ってくれた洵にも理にかなってると褒められ、得意げな赤星の顔を見ては、有望の反対する気力も失せた。
基地にある血液検査機で調べた結果、身体機能の回復は著しいようで、洵は「いまさらだけどさぁー。竜太さんってば、異常だって」と呆れた。それを聞いた黒羽はしごく真面目な顔で「このお人をヤルにゃ、きちんと頭を潰さないと‥‥」と物騒なコメントを述べ、「俺はムカデかよっ」と応じたいつもの赤星に、医務室は笑いで埋まった。

輝の回復もすこぶる順調だった。元アスリートだけあって、輝はこういった意味での身体のケアはまめだった。赤星も元気な輝の様子を見るのがことのほか嬉しいらしくて、にこにこと手当の様子を見ていた。
明後日になったらちょっとずつトレーニングを始めていいと洵からお墨付きをもらった輝は、赤星が何も言わないうちにその顔の前で人差し指を振り回して、「リーダーはまだだからねっっ」と宣言した。赤星が反論する間もなく「ちゃんと治ったら付き合うからね! ちょっとずつだよっ わかった?」と畳みかけ、苦笑した赤星は「わかった。わかった」と頷くしかなかった。

やはりというべきか、赤星には的場が消滅したあとの記憶はところどころしかないようだった。
「凄まじかったぜ、赤星さん」と黄龍に言われた赤星は、「‥‥あんま‥‥覚えてねえんだ‥‥」と困ったように答え、不安げに「俺‥‥お前達になんもしなかったか?」と聞いた。昔、暴れる赤星を取り押さえるのに、真道という人は何度か殴られたのだった。「インケンヤローにきつーいお灸を据えただけで、あとはいい子でしたよ」と黒羽が優しい調子で答えてくれて、やっと安心したようだった。


西都病院は今日から外来を始めており、赤星は精密検査を受けに行く予定になっていた。直接結果を聞きたくて、有望が私が連れて行くと宣言したら、拍子抜けしたことに、赤星はしごく素直に有望の車の助手席におさまった。病院について、MRIその他の検査をする間も、医師から説明を聞く間も、有望はごく自然に赤星に付き添っていた。

今までの赤星には体調の悪さや悩み事などを隠したがるところがあった。その最たるものがOZのことだ。結局彼はぎりぎりになるまで‥‥、いや、本部崩壊という事態になってさえ、有望を巻き込むまいとした。兄や黒羽には全てを話しているようなのに、自分には話してくれない。気を遣わせまいとしているのは分かるけれど、そんな時はいつも寂しい気持ちになった。

けれども昨日からの赤星は、心の傷も身体の傷もありのままにさらけ出している気がした。馴染んだ古いつき合いのままの会話を交わしながら、有望はなにか新鮮なものを感じていた。


検査担当の医師の見立てでは、内臓にも骨にも重篤な症状は出ていないということで、改めて安心する。肝臓の腫脹や腎臓や脾臓の機能低下が回復するにはまだ何日かかかる。肋骨の亀裂骨折は3週間で完治するだろうという診断だった。事情を知らない医師に、とにかく安静にと言われ、赤星は一瞬困ったような表情を浮かべたが、素直に「はい」と返事をした。

途中から診察室に入ってきた洵は、担当の医師と少し専門的なやりとりを交わし、判断の一致を見るとにっこりと笑った。今日は担当ではないそうで、診察室を一緒に出て歩きながら「近くにとっても美味しいパスタ屋さんがあるんだ。ランチ、間に合うと思うよ?」と教えてくれた。ロビーで、洵は、ひどく優しい、でもどこか遠くを見るような、不思議な微笑で「お大事に」と見送ってくれた。


病院を出てすぐに赤星がベースに状況を伝え、「もう少し外出してていいですか?」と許可を取る。ただ食事をするだけなのになんだか浮き浮きした気分で、三色の小籏に飾られたこぎれいな店に入った。注文したスピナッチのパスタはゆで具合が絶妙でとても美味だった。赤星はアサリのリゾットなどとえらく可愛らしいものをオーダーし、ふーふーと冷ましながらも美味しそうにぱくついている。他のテーブルにも何組みかのアベックが居て、こんなところでこんな時間を過ごしているのが、なんだか夢を見ているようだった。

朝から的場の名前は一切出てこない。ただ、赤星が的場のことを考えているのはわかった。高校の時のたわいもない話がやたら飛び出してきたからだ。

古文が大好きなクラスメートが作って回していた手書きの新聞。絵達者な学生が毎期作った教師の似顔絵入りの時間割のこと。準備からして楽しかった文化祭‥‥。赤星のやる教師のモノマネは有望にもみんなわかったし、男子連中がある教師につけていたあだ名を初めて聞いて、笑い転げた。
話を聞いているうちに、こちらも色々な思い出が浮かんできた。空手部や柔道部の大会に助っ人出場する赤星の応援にでかけたことや、毎度、試験勉強の度に頭をはたきながら勉強させたこと。「だって、おじさまと竜水さんがそうしてくれっておっしゃったのよ」と言ったら「ひでえ!」と突っ伏して笑った。

自分の思い出の中にどれだけたくさん、この男の姿があることだろう。中学校のことも、小学校のことも、きっと同じ様に話せる‥‥。

そして‥‥今、自分の目の前に居るのはもはや少年ではなく、何事にも誠実で一生懸命で、強く、優しく、申し分なく大きな男だ。あのやんちゃなガキ大将がこんな風になるなんて、不思議な感じもするし、当然のような気もした。

丸二日ぶりのコーヒーを嬉しそうに飲み終えた赤星は、もう少し付き合ってくれないか? と言った。もちろんいいわよ、と答える。男は会計をしながら、店員に、近くに花屋はないかと聞いている。ああ、弔いがしたいのだと、有望は思った。 車に戻ると、場所を説明するのが面倒だから、自分で運転すると言いだした。今日のこの特別な雰囲気に免じて、素直に運転席を譲った。


教えてもらった店は今風の洒落たフラワーショップだった。試合後のボクサーのような赤星の姿に、若い女性の店員は少し引いていた。でも、少し恥ずかしげに真っ赤な薔薇の花束を持つその姿は、けっこう絵になると思うのは自分の贔屓目なのだろうか‥‥。

赤星はある市民墓地の駐車場に車を入れた。有望に花束を持ってもらうと、手桶を二つぶらさげて前に立った。迷いもせずに石の群の中を歩いていき、一つの黒御影の前で止まる。「的場家之墓」と彫り込んであった。地面に散らばった菊はまだ綺麗な色が残っている。まるで昨日の夕立で生き返ったかのように。だが墓石の前の薔薇の花束はすっかり変色していた。

「言ったかもしんないけど、的場の親父さんとお袋さん、アイツが小さい時に死んでてさ。墓参りぐらい来るんじゃないかと思って、時々来てたんだ。でも、11年間会えなくて、やっと会えたの、おとといの朝だった‥‥‥‥」
赤星はそう言いながら、一昨日の残骸を右手だけで手早く集め、一つめの手桶の水を墓石にざっと流す。両手を合わせて一礼すると、おもむろに拝石をずらし始めた。
「ちょ、ちょっと、赤星、いったい何を‥‥」
驚いて咎める有望に赤星は苦笑を返した。
「俺、昔、的場を引き取った叔父さん夫婦に、あんなヤツいなくなってせいせいしたって言われたことがあってさ‥‥。今回のことで、直接会いに行っても、信じてもらえないだろうし‥‥。的場を‥‥親父さんたちんとこ、還してやりたいんだ‥‥」

拝石の重さがこたえたようで、ずらし終わると赤星は右脇を押さえて立ち上がり、少し息をついた。ポケットから的場の形見の曲がったコインを取り出し、陽にかざす。反射を確かめるかのように、何度か角度を変えて、それをじっと見つめた。
「的場‥‥。お前は‥‥ひとりぼっちじゃないんだぜ。‥‥今までも‥‥これからもな‥‥」

色々と思い出しているのか黒い瞳が揺らぎ、唇が何かをこらえるように歪んだ。そして、吹っ切ったようにコインを握り直すと、納骨棺の一番奥の気付かれにくい位置にそっと置いた。拝石を戻す時は、有望も少し手伝った。
赤星は、花受けには入りきらない薔薇の花束の根元を剥き出しにすると、水を満たした手桶に立てた。それを墓石の脇に置くと少し笑って呟く。
「お前の趣味に合わせてやるよ、的場‥‥」

有望もそっと手を合わせた。祈り終えて隣を見ると、赤星は少し放心したように黒い御影石を見つめていた。見られていることに気づいて、照れたように笑うと言った。
「で、有望。もうひとつ、付き合ってくれるか?」
有望はこっくりと頷いた。


車を運転する赤星は何か考え事をしているように黙りこくっていた。ただその沈黙が辛い感じのものではなかったので、有望もただ黙って車に揺られていた。赤星が車を止めたのは、住宅地の中の小さな児童公園の脇だった。

赤星について有望も車から降りた。赤星が鮮やかに黄色く塗られた公園の手すりに歩み寄る。公園の脇をずっと登ってくる道はこのあたりが頂上だから、公園の地面は道路よりだいぶ下になる。有望は赤星の脇に近寄って懐かしい遊具を見下ろした。ブランコ、ジャングルジム、鉄棒、小山のような滑り台。砂場の上の藤棚には長い紫の房がたくさん垂れていた。
「藤はずいぶん立派になったけど、全体的にはあまり変わらないわよね」
「ああ‥‥。でも、ずいぶん賑やかな色で塗るよな最近は‥‥。見ろよ、あの、ジャングルジム。まるで色鉛筆で組み上げたみたいじゃねえ?」
「ほんとね‥‥」

有望がちょうど小学校にあがる少し前のことだ。ここで年上の男児4人が迷った子犬をいじめているところに通りかかった。思わず止めにはいったら、そのくらいの年齢の子供特有の乱暴さで突き飛ばされた。その時だった。ちょうどこのあたりからだ。やめろと怒鳴りながら、見知らぬ子供が一気に駆け下りてきた。自分より身体の大きな4人を相手に、恐れもせずに少女の前に立ちふさがり、つかみかかってきた子を引き倒した。それが有望と赤星の出会いだった。

他の3人の子供はびっくりして、泣きだした子を引っ張るようにして帰っていった。少年と少女は、子犬の首輪に電話番号を見つけ、電話ボックスからああでもないこうでもないと電話をかけた。迎えにきた飼い主にその子犬を渡したあと、赤星は有望を家まで送ってくれたのだった。

「今思い出しても、大人顔負けのナイトぶりだったわね。こんなにちっちゃかったのに‥‥」」
有望は自分より小さかった当時の赤星を思い出してくすくすと笑った。男は照れくさそうに頭を掻いたが、その顔がふっと真面目になると、有望をちょっと眩しそうに見つめた。
「有望‥‥。今回のこと、ほんとにごめんな。‥‥心配かけて‥‥徹夜までさせちまって‥‥」
「あら、私は起きてただけで何もしてないわよ。洵くんが色々やってくれたから‥‥」
赤星は少し微笑んで、首を横に振った。

「‥‥俺‥‥おとといの夜、ヤな夢ばっか見ててさ‥‥‥‥。どんなに必死になっても、的場や輝を助けられない‥‥。最後は地面が熱くなって溶けて、俺の身体が呑み込まれてくんだ。もう苦しくって‥‥。‥‥毎度、お前が起こしてくれて、やっと夢だってわかるんだ。的場はもういない。でも、輝は大丈夫だし、俺も大丈夫なんだって‥‥」
赤星が手を伸ばすと、有望の右手をそっと両手で取った。
「‥‥そばにいてくれて、ほんとに嬉しかった。心強かったよ。ほんとにありがとう‥‥」

「‥‥ばかね‥‥。そんなこと言うために、ここに来たの?‥‥‥‥」
有望は大きな右手を自分の両手で包むようにして、胸元に引き寄せた。そして冗談めかして言った。
「でもよかった、あなたの力になれて‥‥。あなたって、特に体調のこととか、なんにも言ってくれないし、いっつも隠してばっかりで‥‥」
赤星がとまどったような表情を浮かべた。
「‥‥ちょ、ちょっと待てよ。俺、そんなに隠し事してるか? そ、そりゃ、心配かけそうなことは話さねえこともあるけど、あとはなんだって‥‥」

有望がいきなり手を離すと、赤星の鼻を人差し指でつんと突っついた。
「それが、だめ、なの」
決めつけるようなその口調に、赤星の目が丸くなる。
「あなただって、黒羽くんがどうしてるか分からないとき、いっつも心配してるじゃない。あんなに強い人なのに‥‥。私の知らないうちに、あなたが苦しんでるなんて、寂しいのよ。あなたが辛いときは、少しでも、あなたの支えなっていたいもの」
「‥‥有望はいつだって俺の支えになってるぜ。もしお前が科学者じゃなかったとしても‥‥側にいてくれるだけで、俺は‥‥」

「『いるだけ‥‥なんて、私、いやだもん』」
「え‥‥?」
赤星がきょとんとした顔になった。有望が長い髪を軽く払うとくすくす笑った。
「昔、茜さんがね、結婚してすぐの頃、竜水さんにそう云って怒ったんですって。何か心配ごとがあったのに竜水さんがずっと黙っててね、問題が片づいた頃、追求に負けて白状したらしいの。それで茜さんが怒ってね。お互いにお互いの半分ずつを守ってこその夫婦よって。一人で勝手に1.5人分も守らないでって‥‥」

「ひええ‥‥。義姉さんすげえ‥‥。あの兄貴、怒るなんて‥‥‥‥‥」
「でも、茜さんの云うことよくわかるわ。確かに私、あなたの強いところが好きよ。意地張ってるのかしらと思っても、それはそれで素敵だと思うの。でもね、今日みたいに、意地も強がりもなーんにもないあなたも好き。私にもあなたが護れるって思えるから」

赤星はまじまじと有望を見つめた。その顔に、ゆっくりと、照れたような、ほっとしたような微笑みが広がった。
「‥‥そっか‥‥。そーゆーコトもあんのか‥‥。‥‥俺、自分がなんか情けなくなっちまったみたいで‥‥、ちょっと落ち込んでたんだけどな‥‥‥‥」

赤星が深い呼吸に合わせてすっと背筋を伸ばし、すとんと肩の力を抜いた。いつもの清々しい立ち姿だった。そして男は有望の瞳をまっすぐに覗き込んだ。
「‥‥有望。俺、今日は聞いて欲しいことがあって、ここに来た」
今度は有望の目が丸くなった。急に鼓動が大きくなった気がして、有望は思わず胸元を押さえた。

「有望、俺、お前が好きだ。ここでお前と会ったあの日からずっと好きだった。きっとこれからもずっとそうだ。俺、絶対にあいつらを倒す。そうしたら‥‥俺と一緒に生きてくれないか? 平和になったら‥‥‥‥結婚して欲しいんだ‥‥」

艶やかな唇が軽く開いた。身体中に想いが湧き出て一杯になっているのに、それはなぜか言葉の形に集まらないのだった。白い手が口元に押し当てられた。人をこんなに動揺させておきながら、見つめてくる黒い瞳は果てしもなく穏やかだった。
「こんな状態の時に非常識かもしんない。でも昨日、気付いたんだ。自分がずっと逃げてたことに」
「逃げてた‥‥?」
有望が小さな声で問い返す。赤星はちょっと空を仰いだ。

「俺、今の仕事できてほんとよかったと思ってる。俺の知ってる人や‥‥ここにこうしてある色んなこと‥‥守りたいって素直に思うんだ。そのために、俺のできること、なんでもやりたい。的場みたいに哀しいヤツ、もう増やしたくないもんな‥‥。でも‥‥。OZに足つっこんでから、お前のこと考える時間が、どんどん減ってきてる気がするんだ。俺、そんなに器用じゃないし。こんなんじゃお前のこと幸せにしてやれないって思ったら、何にも言えなくなっちまって‥‥」

赤星がまた有望に視線を戻した。ゆっくりと、そしてはっきりと言葉を続ける。
「でも、昨日はっきりわかった。俺、とにかくお前にそばにいて欲しかったんだ。お前になんもしてやれないかもって思いながら、それでもそばにいて欲しくて‥‥。だからはっきり口に出さずに、曖昧な形でずっとお前に甘えてたんだ‥‥。俺、卑怯だったと思う」

さらさらと髪が舞うほどに、有望が強く首を振った。男の気持ちも言っていることも、全部知っていたはずなのに、この声でこうして聞くと、改めて心も身体も共鳴して響き出すような気がした。
赤星は感謝するような笑みを浮かべた。
「ありがとな、有望‥‥。俺、すげえ調子のいいこと云ってんだ。自分でもそう思う。今は、OZのことで精一杯なんだ。だめなんだ。だから、待ってて欲しいとしか云えねえ。それに‥‥、また今度みたいにヘコんで、みっともなくなっちまう時もあるかもしんねえし‥‥。それでも俺、お前を、一生懸命、幸せにするって誓うから。だから‥‥‥‥」

赤星がぺこりを頭を下げた。目の前にある見慣れた奔放なくせっ毛が、なぜかどんどんぼやけてきた。目を閉じたら頬をつうっと雫が伝って、思わず両手で顔を覆った。
「あ‥‥ゆ、有望‥‥‥っ」
赤星の慌てた声がした。大きな手が両肩を包むように覆った。
「‥‥ごっ ごめん‥‥。あ、あの‥‥‥‥」
「‥‥‥‥もう‥‥。‥‥あなたったら、‥‥どうして‥‥こんな‥‥」

‥‥こんな処で、こんなに突然に、こんなに大事なこと‥‥言うのよ‥‥。

華奢な手が小さく握り合うように口元まで下がると、濡れた瞳が男を見上げた。その前に男が真っ白なハンカチを差し出す。
「‥‥‥急に‥‥ごめん‥‥」
有望がそれを受け取って涙を拭うと、顔をあげた。
「‥‥赤星、私、待たないわ‥‥」
「あ‥‥」
女の答えに男が固まる。女はきらきらとした瞳で、男を見上げた。

「待つ必要ないもの。今、こうしてあなたと居られて幸せだもの。あなたと一緒に戦って、あなたと一緒にスパイダルからみんなを護るわ。そうして勝ち抜いて、今度はまた、新しい形で幸せになるの。いつも、いつも、いつまでも、あなたと‥‥」

言葉途中で、細い身体がいきなり厚い胸の中に包まれていた。白くやわらかい頬に浅黒い頬がぎゅっと押しつけられる。少し痛いほどに抱きすくめられた身体中から、男の響きが伝わってきた。
「‥‥ありがとう‥‥、有望‥‥」
いつもの日だまりの香りに混じって、薬の匂いがした。それがふわりと離れる。女を見つめる黒い瞳には、おだやかな幸せと強い決意があった。

「行こうか」
「ええ」
男の右手がのびた。女がその手を取る。男がしっかりとその手を握り返した。ずっと前から馴染んだ感触でありながら、初めてその手をつないだ時のように、鮮やかで温かい色彩が、男と女の心に生まれた。


互いを慈しみ続けた掌もあれば、憎しみに交わる拳もあった。
それでも、心の赴くままに、伸ばされて握り合った手は、お互いの想いを確かに伝えるのだ。

流れる時の中で、歓びは変わらぬよう、哀しみは歓びに変わるよう、そのように人は歩いていく。
しっかりと結んだ手の記憶がある限り、逝きし友は思い出の中に生き続けるのだろう。そして想い人の手の温もりは、埋もれるほどの歳月を鮮やかに塗り直し、明日を希望で満たすのだった。


===***===(おわり)===***===
2002/9/4
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