第30話 心つなぐ手
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その廃車工場は11年前と同じように、まったく人気がなかった。ただ、あの時的場の上に崩れてきた廃材の山は今はなくて、空き地はがらんとしていた。道から空き地へ降りる短い斜面に腰を下ろした赤星は、ただ夕方の風に吹かれていた。

魔法のように兄の身体にめり込んだ右拳がまだ熱い感じがして、手を開いたり閉じたりしてみた。頭の芯が少し痺れてるような気がする。兄と組んだ余韻がいまだ全身に残っていた。


(もちろん即席で強くなることはできない。でも、普通、人間が持っている力の一部しか出せていないのはお前も知ってるだろう? 全体として劣っていても、発揮する力のパーセンテージによっては、相手より大きな力を出すことは可能だ)

要は火事場の馬鹿力だ。普通、人は、どんなに頑張っても7割程度の力しか出せないという。スポーツ選手などが試合の前に集中力を高めるのも、限界に近い力を引き出すためだ。
赤星はそういうことを知識として知ってはいても、普段意識したことがなかった。ケンカにしろスパイダルとの戦いにしろ、試合のように日時が決まっているものではないし、どっちにしろ、いざという時は身体が自然に動いてきたのだ。少なくとも今までは‥‥。

(お前は身体能力的にとても恵まれてる。力もスピードもある。運動神経もカンもいい。ポテンシャルから言ったら私以上なんだよ? まずは自信を持って‥‥)

それがわかってるから余計落ち込んだりもするんだけど‥‥。ちょっとだけ苦笑して、目を閉じる。兄の言う通り丁寧に呼吸することから始めた。鼻道から気管へ、胸郭、横隔膜、腹筋‥‥。流れを見つめていくと、意識がどんどん澄んでくる。兄の声は耳からでなく、直接身体に染み込んでくるようだ。何事もまず呼吸からと言われ、ずっとそうしてきたはずなのに、全部ふっとんで慌てふためいていた自分が少し恥ずかしい。だがそんな思いもすぐに消えていった。

(最初はただ受けて。お前から手を出しては駄目だ。受けることだけに専念してごらん)

最初はまるで冗談のようにふわっと兄の拳が突き出された。少し戸惑いながら、それを左で包むように受けた。こんどはもう少し早く左の突き。重心を左に少しずらして手首の少し下あたりを掌で押しやる。滑らかに入ってくる右の蹴りを左手で流す。

約束のように素直な手だった。動きが速くても余裕を持って受けられる程度の‥‥。だんだんにひねったバリエーションが入ってきた。何度か失敗した。普段だったらそのまま殴り飛ばされていたろうに、兄はぎりぎりでぴたりと停めてくれた。不思議に思ったがそのまま続けた。

そのうちに兄の動きはどんどんスピードを増していき、余計なことが考えられなくなってきた。自分は、飛んで来る手を無効化するための、ただの機械のようだった。驚くほど高性能の機械。無数のセンサーで相手の動きだけでなく、考えまで捉えようとしている‥‥‥‥。

遠くから声が聞こえた。
(OK。攻めてよし。動きたいように動け)

その時は既に、それが誰の声なのかよくわからない感じだった。言葉の意味を理解したというより、飛んでくる拳が急に殺気を帯びたので、それに反応しただけのようだった。ひたすらに相手の手を受け続けた身体の流れが、要所要所で攻めに転じ始めた。


開いた掌を握りしめれば、それはただ、人を殴るための武器だった。

その行為の前にはどんな思惑も、恣意も、感情も、意味がないのかもしれなかった。


永遠のような時間が過ぎた。だが、一瞬のようでもあった。


はっと我に返った時は、仰向けに倒れた兄が、なんとか上半身を起こしたところだった。ヒットした右拳を、定石を無視して戻さず、踏み込んで振り抜いていた。

(あ‥‥。お、れ‥‥)

戸惑った自分を見あげ、少しだらしない感じで足を投げ出した兄が、顔をしかめながら笑った。
(まいった。これほどとはね。竜太、お前、強くなってるよ、昔より、ずっと‥‥)

そうなのか‥‥?
なんか、ぜんぜんマトモに修行してこなかった気がするのに‥‥。

(道場で修行するだけが、修行じゃないだろう? 『定型あらばそれは偽。無形こそ宝』だよ)
兄が手を伸ばした。近寄ってそれを握り返すと、兄はそれを支えにすっと立ち上がった。

(寄り道をしているからこそ、掴めるものもあるのさ。人の歩く道は、千差万別のようでありながら、実はわずか数種の套路しかないようにも思える‥‥‥。その本随を得ようとしたら、むしろ‥‥)

視線を宙に彷徨わせ独り言になりかけた兄が、少し照れたように笑い、自分を真っ直ぐに見つめた。

(結論は出たかい?)

(ああ‥‥。ありがとう、兄貴‥‥)


本当に、ありがとう。

今朝だって、的場の手は見えていた。確かに素晴しい切れ味だった。磨き抜かれた一挙一動が美しかった。だが、それが、勝てない理由にはならないはずだった。

自分には、小さい頃からこれをやりたいという強い欲求のようなものがなかった。遊ぶことも運動部の助っ人も、降ってくることはみんな楽しかったけれど、兄のようにひたすらに拳に打ち込む根性も、有望のような理論への飽くなき探求心もなかった。そんな自分でも人の役に立てるのは嬉しかったから、ただ単純にそうやってきただけだった。

OZの仕事をやるようになってからは科学者たちの熱意に魅せられた。なによりも、ただ優しいおじさんと思っていた葉隠があんなにも熱く大きな人だったとは‥‥。
人のベクトルが集まって、それが自ずと同じ方向を向いてくる、そのただ中にいるのが楽しかった。実験台だろうが面倒事の窓口だろうが、見ていてワクワクしてくるような人の総意が進んでいくためなら、なんだって買う気になった。

ただ、周りが皆、自分の道を見定め、一心不乱に歩いていくが故に、時々自分はこれでいいのかと思うこともあった。だいたいOZに入ったのも、父親に命令されてわけもわからずで、自分で選んだ道ではなかった。日々楽しいのも昔と同じ。自分が必要とされているからそれをやる。困っている人がいるからなんとかしたい‥‥。さすがに脳天気な自分も、ちょっと単純すぎに思えた。

でも、それでも、よかったのかな。

たぶん大好きな父と、こんなにも似ていて、でも、違う自分。
生まれた時から憧れ続けた兄と、決して重ならない自分の道。

それでいい。俺は俺の道を行く。
困ったら、またその時考えればいい。
きっと開けない道なんて無いんだろうから‥‥。


西に傾きかけた光の中でふっきれたように破顔した男は、近づいた足音に振り返りもせずに言った。
「来てくれたのか、的場」
サングラスに真っ白なスーツの男が、ざっと止った。
「気にくわないね。わかってたみたいな、その言い方」

赤星が立ち上がって向きを変え、斜面の途中から的場を見上げた。
「はは‥‥。わりい。でも来てくれたらいいなって思ってた。覚えてたんだな。ここ」
「‥‥‥‥僕が来たらどうだっていうんだ? 命乞いか?」
的場がサングラスをとって胸ポケットにいれながらそう言った。
「あ、そっか。思いつかなかった。それもいいな」
あっけらかんとした声で、赤星が道まで登ってくる。
「俺達殺すっての、やめろ。スパイダル行くなんて云うな」
「それが人にものを頼む態度かい? 土下座して詫び‥‥」

的場が目を見開いた。赤星がすっと膝をついて正座すると、膝の両脇のアスファルトに拳の基節面をぴたりと押しつけ、頭を下げた。
「お前にあんな大ケガさせちまったこと。あん時も云ったけど、俺も不注意だった。そして何よりお前が入院してた時、もっと早くにお前のガッコに行かなかったこと。ずっと後悔してた。もし行ってれば、お前が退院するまでに、あんな噂、消せてたろう。俺、気が回らなかった。ほんとにすまなかったって思ってる」

赤星の視界の中に黒い革靴が入ってきた。
「それだけか」
「そうだ」
頭を下げたまま、赤星が言った。
「噂をばらまいた張本人のくせに、よく云う!」
的場の右足がいきなり赤星の肩口を蹴上げようとした。が、その靴先を大きな左手がしっかりと捕まえた。赤星がゆっくりと顔を上げて、的場の目を見つめた。
「それは俺じゃねえ」
的場の足をそっと押し返すと静かに立ち上がる。その間、一瞬たりとも瞳を逸らさなかった。

「俺はな、勝ってもねえ勝負に勝ったなんて云われたがるシュミはねえ。それに、あん時の勝負、あのままならお前が勝つ確率の方が高かったろ。んなら余計そんなデマ流す訳ねえじゃねえか!」
「君は喧嘩に負けたことがなかったと聞いていた。西高の愚かな羊たちに祭り上げられて‥‥」
「おい! そーゆー言い方やめろって、さんざん‥‥!」

不機嫌になった声を、的場が逆撫でするように遮った。
「そこに自分より強いオレという人間が現れて‥‥。負けて評判が落ちるのが怖かったのさ!」
「なんだって‥‥?」
「オレを助けるふりをして、裏で卑怯な手を使ったんだ! 認めろ、この偽善者め!」

普段の冷然とした様子が嘘のように顔を紅潮させて毒の言葉を吐き散らした的場の様子に、赤星は一瞬固まり、それでも言葉を探すようにゆっくりと口を開いた。
「‥‥俺‥‥、評判気にして喧嘩してたわけじゃねえもの‥‥。だって負けたら負けたで仕方ねえし‥‥。‥‥‥‥なんて言うかな‥‥」
赤星が静かな目で的場を見つめた。

「なあ、的場。あの日、お前を見舞ったヤツは、ずいぶんひでえこと言ったんだよな。でも、なんでその場ではっきり、違うって言わなかった? 俺がガセ流したって思ったんなら、なんでそん時に文句言ってくれなかった? そうすりゃいくらだって打つ手あったのに」
的場がぷいと目をそらした。歯をぐっと噛みしめ形のいい顎がわずかに震えていた。赤星は少し待っていたが、答えがないのでまた言葉を重ねた。
「お前のおかげで、あん時、有望は無事だった。お前が教えてくれなかったら、どうなってたろって、あとで思ったらぞっとした。ほんとに感謝してる。お前を裏切るなんて、俺に、できるワケないんだ‥‥」

「貴様には‥‥わからない‥‥」
一瞬誰の声かと思った。濁って低く、聞いたことのない‥‥。でも話しているのは的場だった。

「いつも、他人から受け入れられることを当然と思ってる貴様には、あの時のオレの気持ちはわからない‥‥。お前のように、全てに恵まれて‥‥。力も、仲間も、家族も‥‥‥!」
押し込めていた怒りが立ち上る。それを見る赤星の目にも苦痛の色が浮かぶ。的場が激しく喚いた。
「力だけだ! 他人なぞ、力で恐れさせておけばいいんだ! オレは誰にも負けてはならない。勝つか、死ぬかだ! それなのにあの時、オレはお前に助けられ、軟弱にもそれを受け入れ‥‥そのうえ裏切られて‥‥! オレはあの時の自分の愚かさを、絶対許さない!」

赤星の口元が歪み、少し喉にひっかかるような声で言った。
「‥‥‥‥お前の言う通り、俺はバカみたいに幸せのまんま来ちまった‥‥。その上、呑気で、色々いっぱい見落としてばっかりで‥‥‥‥。でも、俺、こうしか生きらんねえ!だから、その分‥‥、みんなが俺を大事にしてくれた分、他の人を大事にしてえ‥‥。俺には‥‥それしかできねえから‥‥。お前のことだって‥‥‥‥」
赤星が真摯な眼差しで続ける。
「的場‥‥。考え直してくれ。スパイダルなんて行くな。‥‥戻ってきてくれ‥‥、頼む‥‥」

的場が少しだけ空を仰いだ。赤星は息を呑んでその横顔を見つめる。だが、一度俯いて、再び赤星を見つめた的場の目は、期待を裏切るように冷たかった。
「オレは貴様達オズリーブスをぶっつぶして、このくだらん世の中とおさらばする。それだけだ」
「‥‥じゃあ、仕方がねえ‥‥。俺はお前を倒す‥‥。みんなにこれ以上手は出させねえ」
「フン。他人のためなんて偽善ぶった貴様にオレは倒せない。人は自分のためにこそ強くなれるのさ」
「そんなら証明してやる。人のための方が絶対がんばれる。俺はいっつもそうだ」

「じゃあ、一つ、オレのためにもやってもらおうか?」
「え? なんだ?」
「オレの手にかかって死ねよ、レッドリーブス。魔神将軍は貴様の首に一番高い値段をつけたのさ」
的場がもったいをつけた仕草で両手を軽く広げる。
「魔性降臨‥‥」

友の身体が、この世のものではない形へと変わっていくのを、赤星は静かな気持ちで見ていた。

これは賭だ。
自分自身の運命に対する、最初の賭だ。

もし負けたら‥‥。みんな、ごめんな‥‥。


「強化スーツを着たらどうだ、レッドリーブス?」
「いや。そのつもりはねえよ。北高校の、的場、陣」
「なんだと?」
「俺は西高校の赤星竜太だ。あの時の続きをやりたくてこの場所に来た。スパイダルやレッドリーブスなんて知らねえよ」
「貴様はバカか」
「まあ、よくそう云われっけどな」
「では、死ね」

黒い異形の両足がとんっと揃う。次の瞬間、赤星の腹部に軽い圧力が加わった。人型の時より少し背が高くなっている怪人の顔が、黒い瞳に映っていた。
「貴様‥‥」
ハンドが右手で赤星の胸ぐらを掴んだ。怪人の左拳は男の腹部にぴたりと押し当てられた形で止っている。赤星の足はさっきからの位置から少しも動いていないし、その両手はただだらりと身体の両側に垂れていて、ガードにも上がっていなかった。

「何を考えている」
甲羅に覆われたような頭部から、少しくぐもった感じの的場の声が聞こえてくる。赤星は目庇のように思える部分をまっすぐに見つめて言った。
「的場‥‥。11年前の勝負、やり直そうぜ。見てみろよ、この空き地。きれいに片づいて、もうなんもジャマされねえ感じだろ?」
「‥‥‥‥」
「今まで俺から勝負を申し込んだことはなかったよな。だから、今、申し込むよ。的場。俺と勝負しろ。ただ、的場陣として、この俺と勝負しろ‥‥」

怪物と男は、彫像のようにしばし目線を合わせていた。少しの間のあと、怪物が男をぐんと突き放した。後ろに数歩よろめいた赤星の視界の中で、怪物は的場陣の姿に戻った。

的場が白いスーツの上着を脱ぎ、振り回すように脇に放り投げる。ネクタイを軽く緩めながらいつものこの男らしい嘲笑を浮かべた。
「いいだろう、赤星。生身の人間にアレで戦ってもなんの勲章にもならないからな。左手を使わないでやろうか?」

赤星がにやりと笑んだ。ポケットに手をつっこむと、ナックルを一つだけ取り出す。
「いいよ。かわりに俺、これ使わせてもらう。片方無くしちまったからちょうどいいや。‥‥それと、的場、これ‥‥」
赤星の右手が、何かをピンと弾いた。波長の長くなってきた光を反射しながら、それが的場の右手に吸い込まれる。

「なんのマネだ?」
受け取ったコインを親指と人差し指で摘んだ的場が、赤星を見る。

「それ、返すよ。俺、三途の川なんぞ行く気ねえから。この世界で生きてくんだ。お前もな」

夕日が、男の笑顔をひどく無邪気な色に染め上げた。


2002/8/17

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