第30話 心つなぐ手
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赤星は一人バイクを飛ばしていた。コントロールルームを出たら黄龍が追いかけてきて、うっちゃってきたバイクの処まで送ってくれた。空に広がり始めた雲が陽の光を遮り、風が少しだけ涼しくなってきていた。


今考えても身体が熱くなる。有望が北高のヤツラに連れてかれた時のことだ。

となりの高校である北高のごろつき連中はもともと気にくわなかった。1年の頃、クラスメートがカツアゲされて頭に来て、翌日そいつにくっついてって相手を殴ったのが始まりだ。あんな風に徒党を組んで、弱いやつ狙って小遣い稼ぎするなんざ、ぜったい許せなかった。
当時、自分や有望の通っていた西高で番を張っていた真道という先輩はなかなかの人だったが、それでも全部に目なんか届かない。ということで、自分の耳に入ってきた話は勝手にカタをつけさせてもらうことにしてたら、なんとなく忙しい身の上になってしまって、面食らったりもした。

2年になるちょっと前、見知らぬ制服を着た優しげな顔の男がヤツラに囲まれている所に出くわした。怒鳴りちらしたら知り合いだ言われて拍子抜け。そいつが的場陣だった。情報通の真道先輩から、拳法使いで強くて喧嘩好き。気に入った相手がいれば遠くまでやり合いに行く男だと聞いた。見かけと違うので半信半疑だったが、しばらくして北高の制服姿の的場が現れ、「君に恨みはないけど倒させてもらうよ」と丁寧な口調で言われた。理由がない喧嘩ってのはしたことがないので、わたわたしていたらエラク押しこまれて‥‥。その時は確かパトカーの音にジャマされて、決着はつかなかった。

で、それから4、5日ぐらいあとだ。生徒会の集まりで帰りの遅くなった有望が拉致されたのは‥‥。真っ青になって探していたとこに的場が来て、有望の連れ込まれた場所に案内してくれた。

その後のことはあまり思い出したくないし、覚えてない部分もある。倉庫みたいな所に飛び込んだ時は悲鳴を上げる有望を3人がかりで押さえ込もうとしていて、2人がそれをにやにやと見ていた。その瞬間、頭の中でパチンと何かが弾けて‥‥。気がついた時は真道先輩に羽交い締めにされていて、有望が泣きながら抱きついてきてた。

5人ともどこかしらの骨を折っていたし、完全な傷害で‥‥。相手が暴行未遂だったこともあって不処分になったが、その後は精神的に参る時間だった。事情はあっても自分の拳は凶器であることを忘れるなと親父に殴られ、警察や家裁にやっかいになって、学校の職員会議でもめて‥‥‥。
それでも半月の自宅謹慎で済んだのは幸いだったのだろう。毎日来てくれる有望の頬の傷が治っていき、いつもの柔らかい微笑みが戻ってくるにつれて、本当に色んなことがありがたく思えてきた。

さんざん迷惑をかけた親父や兄貴。ことあるごとに弁護してくれた有望の両親。自分が出られない間、何かと有望に気を遣ってくれた上、色々な証言を集めてくれた真道先輩。退学にならないよう先生達に働きかけたり、授業のノートを届けてくれたクラスの連中。相手の命に別状無かったことや、障害が残らなかったことも、運が良かったんだと思えた。そして何より、有望に大きな傷を負わせないで済んだこと‥‥。あの時、あの場所を教えてくれた的場に‥‥‥‥。

謹慎が解けてすぐに北高に的場を訪ねていった。後になって考えれば、その時点で彼がクラスメートとどんな付き合い方をしているか、気づけばよかったのだろう。だがその時は、転校してきたばかりだからまだ馴染めないんだろうなと勝手に納得していた。呼び出して礼を言うと、的場は少し驚いた風で、人質を取っての勝負など最低だし、単に君の本当の力が見たかっただけだと言った。そして、君はなかなか倒し甲斐がありそうだ、気に入ったよと言われて、複雑な気分になった。

そうこうするうち的場から日時と場所を指定するメモが届いた。ゴールデンウィークで操業が停止していた廃車工場。ジャマも入らない的場らしい選択だった。実力は‥‥その時も的場の方が少し上だったと思う。だけど、正直言って楽しかった。道場の外で、ここまで思いっきりぶつかれる相手など他に居ない。どれだけ殴られようが体力がいくらでも続く気がした。
だが、鉄廃材の山が急に崩れるというアクシデントが起り、下敷きになった的場を助け出して病院に駆け込むハメになった。的場の左前腕は、金属の切れ端で深く切れていて、すぐ手術も行われた。

幼い時に的場の両親が死んでいたことをその時初めて知った。的場の保護者であり、遺産の管理人でもある叔父夫婦は、的場に対してひどくよそよそしく、ほとんど病室に来なかった。他の人間が見舞いに来た形跡もなくて、友達とか来ないのか? と聞いたら、そんなものはいらないと鼻で笑われた。
最初は何を話しかけてもそっけなかったが、しつこく押し掛けているうちに、どんな練習をしてるかとかぼちぼち話してくれるようになった。人を見下すような物言いはどうしてもスキになれなかったけど、修行に対する真摯さは素直に尊敬できた。そう言ったときの的場の、少し照れたような表情が忘れられない。

そして入院から2週間ほどした日‥‥。いつも通りに的場の病室に行ったらいきなり空っぽになっていた。夜のうちに抜け出したらしく病院でも探していた。看護婦さんの話だと、前日、こちらが帰ったあとに北高の学生が2人訊ねてきたのだと言う。自宅に連絡すると身の回りのものや的場名義の通帳が消えていることがわかった。

その足で北高校に行って驚いた。いつのまにやら的場が負けたという話になっていて‥‥。的場を見舞ったのは例のヤツらの仲間だった。会いにいったら、お前に負けちまうならあんなナマイキなヤツなど用がないと言われ、殴りつけたくなる衝動を抑えるのに苦労した。
的場の叔父夫婦は捜索願いは出してくれたものの、あとはこっちの問題だから構わないでくれと言われた。「行方不明のまま出てこなけりゃ、残りの遺産はあの人たちのものになんのさ」という真道先輩の言葉がずんと来た。

傷口だってまだ完全に治った訳じゃない。いったい、どこに行っちまったのか?
何に怒ったらいいやらわからなかった。的場を北高に引っ張った奴らも、的場の保護者も、そして、的場の側にいるつもりで、何にもわかってなかった自分も‥‥。


負けたという噂が消えた原因なのだとしたら、なんでそこまで‥‥。違うって言えばいいだけだ。こっちが乗り込んでって北高中で怒鳴ったって構わなかった。実際問題、勝負はついてねえんだ。噂の出ドコが俺だと思ったならその場で文句を言やぁいいじゃねえか。そうすりゃこんなことにならなかったんだ。
的場‥‥。俺はお前に、どうしたらよかったんだ‥‥‥

とにかく、的場に勝たなきゃ。
手足へし折ろうがなんだろうが、とにかく勝って、あいつが俺達を殺すっての諦めさせて‥‥。


‥‥俺は‥‥あいつに勝てるんだろうか‥‥。


親父の血を引き、天才といわれる兄貴を持ちながら、こと拳の道にかけて自分は何か足りない。親父にはそう言われ続けてきたし自分でもそう思う。才能がないワケじゃないと思う。ある程度はできる。修練も楽しくて好きだ。だけど、どこかその場しのぎというか、兄貴のようにひたすら突き詰めていく根性がない。強いヤツとやり合うのは楽しいけど、試合とかには興味が無くて、何か起ってる所に呼ばれて行ってる方が面白くて‥‥。

そんないい加減なところを見越して、親父は自分を道場から出したのだろう。そう気付いた時は少し落ち込みもしたが、それはもう持って生まれた性格で仕方がない。今は、考えてみると凄いことやってる気もするし、とにかく小さい頃から可愛がってくれた"葉隠のおじさん"に喜んでもらえるのは嬉しい。歩いてきた道を後悔するつもりはないけれど‥‥。


だが今日、的場の身のこなし、拳の切れ味を見て、正直言って圧倒された。兄貴と組むといつも対戦者というより諦めて胸を借りるような気になってしまうのだが、それにちょっと似ている。ささくれた物言いをする的場が、あの温厚な兄貴と同じように、何かを求道してきた者と同じオーラを放っている。不思議だけど、そうだ。


「シンプル・イズ・ベスト」の信条からして、どうしても取りたくない手段から順番に削っていった。そうしてただ一つ残った結論がこれだ。もう一度、自分が的場と戦う。

負けたら‥‥的場を‥‥。
OZの総力を挙げて、あいつを‥‥。
思いの全てを殺しても、自分はそうしなければならない。

‥‥‥だから、どうしても、勝ちたい‥‥。


今の的場とは大きな腕の差がある。もちろん勝負は強い方が常に勝つもんじゃない。だけど気持ちの上で負けると思っていたら、きっと負ける。かといって即興で強くなれたら苦労はないし‥‥。このもやもやした気持ちをなんとか納得させて、落ち着かせるヒントが欲しい。

思い悩む赤星が向かっていたのは、兄の元だった。


===***===

実家についた赤星は家屋の門でなく道場の門の方に回った。さしもの赤星も、今日ばかりは甥っ子や義姉と世間話をする気にならなかったのだ。さっき電話をしたので、兄は道場で待ってくれているはずだった。
赤星の家は拳法の道場を開いていた。流派は赤竜拳。もともと空手をやっていた父の虎嗣が中国の古い武術、八極拳に惚れ込んで作り上げた。そしてその当主を名実ともに継いでいるのが、赤星の5歳上の兄、赤星竜水(たつみ)だった。

道場は、そう大きくはないが、南側が庭に面して大きく空いていて、残りの三方にも窓がたくさんある。屋根とそれを支える柱が基本で、そこに壁や窓をはめ込んだ‥‥という感じの造りで、赤星はこの道場が大好きだった。
沓底が床を滑る音と、ぱんと何かを叩く音が聞こえてくる。兄が型をやっているのだろう。全体を見るには庭の方がいい。竹垣を回り込んで庭に踏み込んだ途端、赤星の目は開け放たれた道場に釘付けになった。


拭き清められた板床に、純白の鳥が舞っていた。


劈掛拳を元にした兄のオリジナルの套路。いや‥‥誰かに伝えるためのものでなく、また演武ですらないのだから、套路とは言えない。それは兄が、自分自身の心と語る一つの手段であり、彼のこの極めてプライベートな舞いを知る人間は少なかった。

兄の、ほとんど閉じていた目が見開かれた。続けてくれと頷いて返すと、口元がかすかに微笑み、また伏し目に戻った。身体の動きは留まることがない。緩急の全てが心地よいほどに美しく流れていく。赤星は忘我してそれに見入った。

特徴的な腕の伸びが大きな翼を思わせて目を奪う。弓歩、虚歩の一歩としておろそかにしない。盤歩から小さく座り込み、そこから一瞬の転身と大きな拳。鞭のように跳ね上がり、空中に大きく回した左足背を右掌で打った。着地と同時に仆歩。小気味よい音を響かせ、床を掌で打つ。伸びた膝横が床に着きそうなほど沈みながら、足裏はぴたりと地を捉えている。

そのまますっと片足で立ち伸びる。ひとすじたりとも揺らぐことがない。極めてゆっくりと足が下りていく。それも身体から離れながら。その重心位置がなぜ保てる? まるで物理の法則を無視しているかのような筋力だ。着地した足に重心をゆっくり移動して拳を放つ。そしてもう一度だけ、翼が大きく羽ばたき、すっと回った左拳が右掌に収って、白鳥の舞いは終わった。庭にまっすぐに向いたその収式に、赤星は思わず同じ型で返していた。

「悪かったね、待たせて」
快活な声がかけられて、初めて赤星は我に返った。現の姿に戻ったかの人は、真っ白な道着に身を包み、にこにこと優しい笑みを浮かべている。この人はいったいどこまで深く、大きくなっていくのか‥‥。赤星は眩しそうに兄の顔を見上げた。
「‥‥いや、ぜんぜん。いいもの見せてもらったよ」
「なら、よかったけど。さあ、上がって」
赤星は玄関に回った。武道用の沓に履き替えて手や口を漱ぎ、道場に入ると、兄が水差しとグラスを用意して待っていた。

「どうした? ずいぶん元気のない声だったね」
「うん‥‥」
赤星が竜水の注いだ水を一口飲む。馴染んだ井戸水の適度な冷たさが嬉しい。少し考えてから兄の顔を見た。
「あのさ、兄貴‥‥。俺が高校の時色々あった、的場陣って、覚えてる‥‥?」
「もちろん。消息がわかったのかい?」
「それがさ‥‥」

赤星が今朝からのことを語り始め、竜水は驚きながら、それでも黙って聞いていた。会ったことはないが、当時、的場の名は毎日のように弟の口に上った。何事につけ素直に受け取ってしまう弟にはショック続きの二ヶ月だったが、あの一連の事件によって、この弟が、荒むのではなくむしろ感謝と思い遣りの心を深くしたのは、兄としてとても嬉しかった。

行方不明になった男のことを、弟が何かと気にかけてきたのも竜水は知っている。大学3年になった頃、「黒羽のつてで、時々様子、教えてもらえそうなんだ」と嬉しそうに言われた時は一瞬誰のことかと思った。弟にとって的場陣は、未だ"過去"ではなかったのだ。それがいきなり敵となって現れた。ひとつひとつ、自分に言い聞かせるような言葉の調子が、弟のやりきれない思いを示していた。

「‥‥俺‥‥、色々考えたけど、的場に勝てるってまだ思えねえんだ‥‥。兄貴に大丈夫だって云ってもらいたいって、甘えてるだけかもしんねえけど‥‥。でも、こうなったらもう、気休めでも暗示でもなんでもいいよ。俺、とにかくあいつに勝たないと‥‥!」
「‥‥竜太。私はどんな事情であれ空手形は出さないよ。ましてや、お前の命にかかわることだ」

兄の言葉に、弟は子供の時のようにシュンとしょげ、小さな声で言った。
「‥‥やっぱ、俺、勝てねえ? ‥‥兄貴もそう思う?」
「なんでそう思うのかい?」
だって、あいつ、すっごく真面目にひとすじに修業してきたんだ‥‥、と、弟は言った。自分のいい加減な拳法が通用するって思えねえから‥‥。

竜水は小さく息をついた。

日頃、それよりもっと強い存在と頓着無く戦ってるだろうと思うのだが、子供の時に身に付いてしまった劣等感は、弟のこの性格をしても拭い去るのは難しいらしい。むしろ、それを妙に歪めることもなく、素直な認識になっていることを誉めてやるべきなのか。
父はどうも自身と似ている弟に厳しくあたることが多かった。弟も弟で父に対してはすぐ反抗するのでよけい話が混乱する。人それぞれなんだから二人比べてどうこう言うのは止めてくれと父には言ったのだが、結局弟は、こと拳にかけては、自分は本道に乗る資格がないんだと思い込んでしまったようだった。

「ねえ、竜太。私はこのことについて、もっと早くお前と話しておくべきだったかもしれない。お前は、私に対して、意味のない劣等感を持ちすぎているよ」
「でも‥‥」
「お前は、私の歩いている道が自分の求める道でもあって、自分はそこからドロップアウトしてしまったと勘違いしてる。でも違うんだよ。お前の求める道は最初から違っていたんだ」

赤星は少し目をぱちくりした。兄の話は時々観念的になる。だがよく聞いていると事象を整理してその概念を語ってくれていることが多かった。自身のことすら深く掘り下げることの苦手な赤星は、話がこと心理面になってくるとお手上げの気分になってくる。だが、何がどう布置されているのかわかれば行動はあっさり決まる。それはこの男の、単純ではあるが長所と言っていい部分だった。

「お前はなぜ修行を始めて、続けてきた? 私は覚えているけれど、親父様はけっして無理強いはしなかったんだよ。まあ‥‥お前がやりたいと云ってからは、かなり厳しかったけれど‥‥。でも、お前は修行から逃げ出したことはなかった。私の云う通り、真面目にやってきたろう?」
「小さい頃は、兄貴みたいに動けるようになりたかったんだよ‥‥。だってカッコよかったし‥‥。それに兄貴や‥‥親父にだって褒められると嬉しかったから‥‥。あと‥‥有望が‥‥。あいつ、すげえムチャな子どもだったろ? 年上の乱暴そうなヤツにも『そんなのいけません』とか云っちゃうし。だからもう、できるだけ早く、大人とケンカしても大丈夫なぐらい強くなんなきゃって、思ったんだ‥‥」

そう言いながら、赤星は少し苦笑した。
「自分で云っててなんだけど、なんか笑っちまう理由だな‥‥」
竜水が微笑んで返した。
「いや‥‥そんなことはないよ」
「でも‥‥強いのはいいよ。理不尽な暴力に負けないで済む。誰かがいじめられてても助けられる。俺が強いってわかれば、俺の周りの人間に、手、出そうってヤツが少なくなる。あと、相手と力の差があればあるほど、逆にあんまりケガさせねえで済むってのもあるよな。今だって‥‥もし俺がある程度戦える人間じゃなかったら、他のヤツがレッドやってんだろ。なんか悪いじゃん、そいつに。いや、みんなにも悪いんだけどさ。でもせめて自分が、レッドできてよかったなって思ってる」

少しだけ自信の戻った弟の眼差しを見返して、竜水は言った。
「そう‥‥。それがお前の"道"だ。でも私にとっての"道"は、お前とは違う。私は拳そのものに魅せられてきた。強くなりたいとは思ったかもしれない。それを上達の一種の尺度とするならね。だが私にとって、"拳"は何かのためのものじゃない。"拳"を"拳"として私は求めてる」
「‥‥それ‥‥‥どういう意味‥‥?」
「お前にとって拳は、有望ちゃんや友達や自身を護る"手段"なんだよ。だが私にとっては、拳そのものが"目的"なんだ。私は、私が大切に思う者や事を護ろうとした時、もしかすると、拳への想いを捨てなければならないかもしれない。両立しないかもしれない‥‥」
「そういう風に真剣に考えないと‥‥強くなれないってこと? だから俺‥‥‥‥」

「違う違う!」
竜水が珍しく少し大きな声を出した。
「竜太。小さなお前が、純粋に有望ちゃんを護ろうと思ったこと。友達を泣かせないようにしようと思ったこと。そのために一生懸命修行してきたこと。それの何を卑下することがある? その時の思いを、今も変らず持ち続けているお前の何を‥‥。確かに"拳士"として考えたらお前には足りない部分があるのかもしれない。だが、人として‥‥、"赤星竜太"という存在として、お前は誰に恥ずることはない。私がそんなお前を、どれだけ誇りに思っているか、わかるかい?」

物心ついてから最も憧れて、尊敬し続けてきた人のその言葉に赤星の目がまん丸になった。
唇が何か言いかけたが言葉が出てこなかった。

兄がグラスを盆に乗せ、隅に押しやると、すっと立ち上がった。
「立ちなさい。お前は勝てる。持っている力の全てを出し切れれば、お前は勝てる。気休めでも暗示でもない。入り口まで案内しよう。そこでもう一度考えて結論を出しなさい」

まだ少し呆然と兄を見上げていた黒い瞳に不敵な色が戻ってきた。
唇を引き結び、こくりと頷くと、弾むように立ち上がる。

この兄を信じて、裏切られたことなどなかった。
自分も、誰を裏切ることなく歩いていきたい。兄が認めてくれた、自分自身の道を‥‥。


2002/8/3

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