第30話 心つなぐ手
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的場が消滅する寸前の痙攣がそのまま残ってしまったかのように、膝をついた赤星はがくがくと震え続けていた。抱きしめたシャツには、まだ的場の体温が残っている。

「愚か者め‥‥。その身体にディメンジョン・ストーンを埋め込まれた者が、我らを裏切るなど許されんのだよ」
魔神将軍の、カンに触るような高めの声が、どこか遠くから響くように聞こえてくる。

上半身がふらりと前に倒れ、男は地面に両手をついた。その掌の下には雑すぎるディスプレイのようにワイシャツとネクタイが散っていて、シャツの裾からは白いスラックスへと続いている。たぶん上質の生地で縫製されたそれは、友の最後の苦悶のままの角度に折れ曲がっていた。

シャツのあちこちを確認するように押さえる。そうしていれば、その布地の中にあの肉体が戻ってくると思っているかのように‥‥。だが掌に返ってくるのはでこぼこした地面の感触だけだ。男の手は動きを止め、ぺたりと肘までを地につけた。
「‥‥なん‥‥で‥‥‥っ‥‥‥」
白い生地の中に額を押しつけた男から呻きが漏れる。その耳の奥には、的場が自分を呼ぶ最後の声が、まだ残っていた。

シェロプが、うずくまった赤星に嘲笑を投げつけた。
「まあ恨むな。自業自得さ。所詮、その男もハンパものだったようだな」

その声に、赤星がゆっくりと顔を上げた。シャツの脇に見覚えのあるものが落ちていた。髑髏がレリーフされた1枚のコイン。その金色はひどく温かい光を放って、赤星の目に飛び込んできた。

震える手が、それを拾い上げた。

コインを握りしめた左手を自分の胸に押しつけ、赤星は異界の長身を睨め付けた。その瞳はぎらぎらと、普段の彼からは想像もできない険悪で凶暴な光を放っていた。シェロプを射抜かんばかりに見つめたまま立ち上がる。右手でリーブレスを掴んで指紋照合を行うと、食いしばった歯の間から押し出すように、決められた言葉を吐き出した‥‥
「着‥‥装‥‥」
シュンッと実体化した緋色のスーツが男の身体を覆った。

「‥‥ど‥‥け‥‥‥」
黄龍も、そして黒羽でさえ、その言葉が自分たちに発せられたものだと、一瞬気付かなかった。かつて聞いたことのない赤星の声音だった。
「‥‥おい‥‥ムリだって‥‥!」
赤星を引き留めようとした黄龍を黒羽が制する。ヘタに手を出せば仲間でも殴りかねないほどの激情。この大らかな男がここまでの殺気を帯びるとは、黒羽にとっても驚きだった。こうなってしまっては一撃でも喰らわせないことには収まりがつかないのだろう。

赤星が基地を出たあと、黒羽もずっと的場という男のことを考えていた。もし赤星の願いが叶って和解できたとしても、あれだけ肉体を改造されていては、いきなり暴れ出さない保証なぞどこにもない。手術を重ねても元の姿に戻るのは難しいだろう。長い期間、閉じこめられ、研究素材となって‥‥。
なにより彼はスパイダルの怪人である以前に、何人もの人間を殺している「殺し屋」なのだ。あの人数では、極刑か、よくて無期懲役か‥‥。何がどう転んでも明るい解決策など見いだせない。結局、赤星は辛い思いをするし、的場とて‥‥。ならばいっそ‥‥とまで思っていた。

だが‥‥

さっき、的場の落ち着いた表情と、赤星の子供のような笑顔を見た時、的場も生きていてよかったと、不覚にも思ってしまった。なんの根拠もないのに、何か道が見つかるかもしれないと‥‥。それこそが、赤星竜太という男の不思議なのだろう。密かに恐れていた赤星の自棄的な相打ちという形にもならず、殺さず、殺されず、長い年月に凝り固まった誤解と憎しみの塊を溶かした。なのに‥‥。


歩いてゆく男の足取りはしっかりしていて、さっきまでふらついていた人間とは思えない。その右拳がふわりと金色を帯びた。一方のシェロプは腰のサーベルを鮮やかに抜き放つ。
「ハッ! その身体で向かってくるか! 賤民の分際で私の手にかかることを光栄に思うがいい!」
2mを越す長身が、片手で振りかぶった剣を素手の男に打ち下ろした。

「なにっ」
刀身の中程を男の白いグローブが掴んでいる。汗を流して前線に出るなどまっぴらなシェロプとはいえ、3次元の人間では及ばぬ力を持っているはずだった。
「ばかなっ」
シェロプはそのままサーベルを押し込もうとする。だのに、そのサーベルはぴくりとも動かない。それどころかじわじわと左側に倒されつつあった。
血にまみれた左手が、ほとんど肩の高さまで開かれる。自分に真っ直ぐに向いているゴーグルは、日の落ちてしまった今では真っ黒で、男の表情は見えない。

そうだ。きっとこれは人間ではないのだ。きっとヘタに動けば、この人の形をした"もの"は、自分を道連れに爆発する‥‥。
シェロプは、わけのわからない恐怖に縛られていた。

男が一歩踏み込む。シェロプがサーベルを手離そうとやっとこさ思い立った時はすでに遅く、顔の中心に激しい打撃を喰らった。
「がっ!」
シェロプが顔を押さえて前屈みになる。掴み取ったサーベルを投げ捨てた男は、その頭に手本のようなソバットをぶち込んだ。大きな回転に乗せて破壊力のある蹴りを側頭部にくらったシェロプはたまらず吹っ飛び、仰向けに倒れた。

「立て!」
仁王立ちになった赤星が恫喝めいた声で怒鳴る。
「‥‥こ‥‥。き‥‥、きさ‥‥ま‥‥」
異世界の野蛮人に、こともあろうに頭を足蹴にされて、シェロプは怒りにくらみそうになりながら立ち上がる。何か後悔させるようなことを言おうとしたが、男の怒号のほうが早かった。
「立て! あいつをハンパだってなら俺を殺してみろっ! 力じゃあいつ以下だった俺を!!てめぇの手で、直接やってみやがれ、この腰抜け野郎っ!!」

「黙れっ!!」
魔神将軍が左手を水平に払うと手の甲から鞭が繰り出された。それがウミヘビのように赤いボディにまとわると先端部が背中を強打した。
「ぐ‥‥っ」
赤星が膝をつく。跳ね返ってしなったそれが頭部に降ってきて、反射的に両腕で頭を庇った。
「この‥‥っ 卑賤な輩が‥‥っ」
シェロプの声がヒステリックに跳ね上がり、肩や背中にむちゃくちゃに鞭を打ち下ろし始めた。

「レッド!」
「手ぇ出すんじゃねえっ」
怒声に、二人の足が止まる。その声には苦痛の欠片もない。たぶん物理的に動きにくいだけで、何も感じていないのだ。逆にまずいと思った黒羽が踏み出した瞬間、赤星の右手が鞭を掴み取る。シェロプの虚を捉えてそれをぐんっと引っ張り、白いマスクに思いっきりの左拳を叩き込んだ。後ろによろめいたシェロプの頬が地球人の血のりで汚れる。赤星の手から鞭がするりと抜けた。

「だあぁっ!!」
いつの間に拾ったのか、シェロプのサーベルを掴んで男が突き込んできた。名誉ある紋の刻まれた自身の得物! シェロプが必死で身体を開く。刃がすり抜けざまにその左脇腹を切り裂いた。
「き‥‥貴様‥‥」
シェロプの左手がサーベルの鍔をがしっと握りしめた。男は刀身をはね上げてなおも斬り込もうとする。さしものシェロプも名誉がどうこう言っている場合ではなかった。男のこめかみのあたりを右手を薙ぎ払い、その身体を打ち飛ばす。

「お‥‥覚えていろっ!」
「待ちやがれっ」
ぼやけた長身を捕まえようとして走り出した身体が後ろから引き止められた。
「赤星!」
「手ぇ出すなって云ったろうがっ」
暴れる身体を黒いスーツがとり押さえる。黄龍が赤星のリーブレスにコードを打ち込んで、むりやりスーツを解除した。

頬が夜気を帯びた空気に触れたとたん、赤星の身体からかくんと力が抜けた。
「‥‥あのヤロが‥‥にげ‥‥る‥‥。にげ‥‥」
「もう、間に合わん。終わったんだ」

赤星が呆然と黒羽と黄龍の素顔を見比べた。瞳が宙を泳ぎ、宵の明星の貼り付いた紫色の空を仰ぐ‥‥。と、その身体が、糸の切れた操り人形のように、仲間の腕の中に崩れ落ちた。


握りしめた左手が緩み、血の雫を弾きながら金色のコインが滑り落ちた。


===***===

照明を落とした医務室で、有望はまんじりともせずに一夜を過ごした。もう外は日も高くなっている時刻だが、地下のこの部屋では時計の針がその事実を示すだけだ。男の寝顔を見れば、たった一日ちょっとで、とても面変わりしてしまったように感じた。血の気が無く、唇は切れて頬に青痣が浮かび、うっすらと顎を覆う無精髭までが、よけいに憔悴した印象を与える。

ちょうど誕生日なのに‥‥と、有望は思う。今日で満28歳。泥だらけの手で鼻をこすって「オレ、今日、7つになった!」と得意そうに宣言した少年の顔を思い出した。

それから長い時を越えて、この男のこんなにも脆くなった姿を初めて見た気がする。

基地に運び込まれた時の赤星は、まさに抜け殻だった。朦朧としていたのは確かだが意識が無かった訳ではない。だのにその瞳には何も映っていない感じだった。何度も声をかけてやっとひとつ頷くという調子で、永遠に湧き続けると信じていた気力の泉が、いきなり尽きてしまったような気がした。されるがままにストレッチャーに移されて運ばれる途中、かろうじて喋ったのが「ごめん」の一言で、なんだか泣きたくなった。

この日二度目の呼び出しに駆けつけた洵も流石にその様子に驚いたようだが、すぐにてきぱきと指示を出し、田島と黒羽を助手に手当に入った。ひたすら優しく、どこか頼りない印象すらあるこの青年は、まさに医師なのだと思い知る。そこにはしなやかな強さがあった。

身体中に強い打撲と内出血、右肋骨3本の亀裂骨折。ただレントゲンの結果、手術は不要との判断で、左掌の裂傷だけ数針縫ったそうだ。強打されて腫脹している肝臓や機能低下を起こしているその他の内臓も自然治癒を待つしかなかった。治療後、洵は少しおどけた風に「あれだけ血糖と代謝の低下した状態で暴れるなんて、やっぱり竜太さんは普通じゃないなぁ」と笑った。その笑みにつられて、輝と瑠衣の顔がやっと明るくなる。大丈夫なんですか?という瑠衣の問いに、「簡単に言うとね、とっても疲れてるだけだよ」と答えたその声は本当に優しくて、救われた気持ちになった。

赤星は点滴が終わった直後に目覚め、いきなりベッドから起きあがると外に行きたがった。コインがどうのこうのと子供のように言い募る赤星を、絶対見つけてきてやるからと、なだめすかしたのは黒羽だった。やっと納得して横になったら、今度は死んだように眠りに落ちた。

医務室には二つのベッドがあるが、輝は気を使って隣の予備室に移ってくれた。申し訳なかったが、同じ部屋だと逆に何度も起こすはめになったかもしれない。結局のところ洵もその部屋に泊ってくれた。 赤星は、発熱のせいか数度うなされては的場や輝の名を口にした。そっと揺り起こすと、汗まみれの顔にほっとしたような表情を浮かべてこちらを見た。洵も何度か様子を見て薬を処方してくれて、その度に赤星は、かすれた声で礼を言った。


昨夜、黒羽と黄龍から話を聞いて、涙が抑えられなかった。利己的だと思うけれど、的場のためではない。赤星の想いのため‥‥。ただひたすらに好きな男のためだった。

的場陣のことで赤星がひどく後悔していたことをよく知っている。この男が他人に対して、時にお節介なほど心配性になったのは、あの事件の影響も大きかった。

的場が入院していた時に、赤星に付き合って一度だけ見舞いに行ったことがある。赤星はあの事件以降、自分が北高校に近づくことを嫌がったので、それまで礼を言うタイミングがなかったからだ。
「これはご丁寧に‥‥」と的場は薄く笑った。「でも貴女の為じゃない。余計なジャマ無しにこいつとやり合いたかっただけでね。それに、こいつの実力も見られて幸運でした‥‥」

赤星の言うように「いいヤツ」なのかもしれないが、人を拒む何かがあった。相手を拳で叩きのめす類の"強さ"だけが、その時の彼が人と交わる術のように感じた。だが、その的場が、唯一赤星だけには心を開き始めているようにも思えた。多少冷たくあしらわれても懲りずに足繁く的場の病室に通っていた赤星‥‥。的場にとってそんな人間は珍しかったのだろう。

あの夜、拉致された自分を助けにきた時の赤星は本当に恐ろしかった。まさに阿修羅だった。信じられなかった。本人は細かいことを覚えていないし、絶対云えないけれど、あの夜、一番恐ろしかったのは、自分のために怒りすぎて、完全に爆発してしまった赤星かもしれなかった。

だが‥‥。それが逆に、的場の興味を引いたのだと思う。理由は違えど、赤星は的場に惹かれ、的場は赤星に惹かれていた。それ故に赤星に裏切られたと思った的場は、赤星をとことん憎み、自暴自棄になっていったのだろう‥‥。

11年の、的場の赤星に対する想い。そして赤星の的場に対する想い‥‥。

再会はとても不幸だった。弟のように可愛がっている輝を、自分の躊躇い故に傷つけられ、的場と仲間の板挟みにもがいて‥‥。だからこそ、「そん時の赤星さん、えっらく嬉しそうだったんだ」と言った黄龍の言葉は、赤星の表情が思い浮かぶほどに、よくわかった。

それを一瞬で無にされてどんなに悔しかったか。それは眠れる阿修羅を揺り起こすほど激しくて‥‥。もし許されるなら、昨日のシェロプとの戦いのモニターログは、すべて消去してしまいたい。

昨日という一日が、いったいどれだけこの男の心と身体を傷つけたのだろう‥‥


有望は赤星の手にそっと触れる。と、その大きな手が、かすかに動いた。
「赤星‥‥?」
赤星がゆっくりと目を開けた。まだ夢の中にいるような表情であたりを見回す。
「‥‥有望‥‥。ずっと‥‥いて、くれたのか‥‥‥」
「気分はどう? よく眠れた?」
「ああ‥‥だいぶ、いい。‥‥みんなは‥‥?」
「コントロール・ルームに詰めてるわ。あなたがいない間に何かあったら大変だって言って」

赤星がいきなりむくりと起きあがり、身体の痛みに顔をしかめながら隣を見た。輝が寝ていたベッドは空っぽで、きれいに整えられていた。
「あれ、輝‥‥。輝は‥‥?」
「夕べ、隣の部屋に移ってくれて‥‥。でも今朝、洵君のこと説得して起きちゃったの。リーダーの分、オレが頑張るからって‥‥」
「だいじょぶ、なのかよ、ったく‥‥」

その言い方は、弱々しくてもいつもの赤星で、有望は、やっと笑うことができた。
「輝君、夕べ、ちょっと怒ってたわよ」
「え?」
「『こんなの、賛成できないよ』って‥‥」
「‥‥ごめん‥‥。だけど、アイツがあそこに来たから‥‥。俺、どうしても‥‥」
「本当に‥‥心配したのよ‥‥」
「ごめん‥‥」

しゅんと頭を垂れたその様子にまた微笑んだ有望は、ふと思い出したようにポケットに手を入れた。
「そういえば、黒羽くんから、これ‥‥」
折れ曲がった1枚のコインを取り出す。赤星の目が丸くなった。
「‥‥こんな曲がっちまって‥‥。でも、黒羽‥‥。ちゃんと探してくれたんだ‥‥」
「今朝、とても早く行ってきてくれたの。あなたが起きたら渡してくれって‥‥‥」

赤星が右手を開き、有望はそこにコインをそっと置いた。
「有望‥‥部屋‥‥明るくしてくれるか?」
有望はすっと立つと照明を上げた。明るく、しかし柔らかい光が部屋を満たす。
赤星は少し眩しそうに目を瞬かせた。有望を見てかすかに微笑んだが、またコインに視線を落とした。

シェロプのサーベルを受け止めて、真ん中から折れ曲がった髑髏が、にやりと笑ったように見える。

コインの上に大粒の雫がぽたりと落ちた。大きな掌がぎゅっと握りしめられる。
「アイツ‥‥どんな思いで‥‥この10年‥‥」絞り出すような声でつぶやいた。
「人間じゃないものになって‥‥そこまで‥‥‥‥」
赤星の広く厚い両肩がわななき始めた。

有望はそっと近づくと赤星の肩に手を回しその黒髪を抱きよせた。
「ねえ、赤星‥‥。あなたは的場君に、出来る限りのことをしてあげたの‥‥。この世界を捨てる気でいたあの人が、最後に戻るつもりになったのよ。あなたのいる所に‥‥。それを忘れないで‥‥」

男の喉から嗚咽が漏れた。女の胸に頭をあずけて男はこらえることもせずに泣いた。

慟哭の震えがおさまってもなお、女の華奢な白い手はその身体をそっと撫でていた。

傷ついた全てを癒すように‥‥。


2002/8/29

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