第25話 下弦の月
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赤星はとうとう起き上がった。30分ほど前に部屋を出ていった黒羽が戻ってこない。黒羽の寝ていたベッドの脇のパイプ椅子には黒い上着が無造作にかけられていた。

大きな山は乗り越えたものの次元回廊が閉じているわけではないので、赤星は例によって仮眠室にいる。すぐ動けるようにジーンズ姿のままだ。枕元の腕時計を取ると夜中の1時半を回っていた。

帰ってからずっと黒羽に違和感を感じていた。受け答えも普通でいつも通りに黄龍たちにチャチャも入れてたし、何がヘンかと言われると難しいのだが、どこか上の空の感じがしたのだ。昨夜、自室に引っ込んだと思っていたのに、いきなり仮眠室に入ってきた。無言で隣のベッドに寝転がり「なんか動きやがったらすぐに叩き潰してやる」と過激な言葉を呟いて‥‥。さすがにどうしたのかと訊ねたのだが、「関係ない」と背中を向けられ、それ以上聞けなくなった。

スニーカーを履くと上掛けの上に広げてあった革ジャンパーを両肩に引っ掛ける。廊下に出て洗面所や医務室をのぞいた。コントロールルームにはサルファだけ。トレーニング場も真っ暗だ。オズブルーンのコクピットも空っぽ。格納庫にも人気はない。今夜ばかりは、技術者たちも皆、自分の枕を抱えてぐっすり寝ているはずだ。オズベース全体が安らかに眠りについている感じだった。

赤星は首をかしげながら喫茶店まで上がった。店内も暗く人影はない。だがドアから妙に明るい光が入ってきている。外のライトを消し忘れたらしい。
ガラスのドア越しに外を見た途端、どきりとした。外階段の下の方に座っているのは赤絹のワイシャツと黒いベスト姿の黒羽だった。街灯と屋外照明の光で何かを読んでいるようだ。それは息が止まりそうになるほど、寂しげな背中だった。

あまり驚かせずに自然に気付いてくれればいいと思って、静かにドアを開けた。黒羽の背中がびくんとすくみ、肩越しにこちらを見上げた。
「なんだ‥‥。旦那か‥‥」
そう呟きながら読んでいた紙を折り畳む。赤星は黒羽がそれを封筒に戻せるだけの間を置いてから外階段を降りると、友の右側に座った。その淡いブルーの封筒は、皆で夕食から返った時、郵便受けに入っていたことに気付いたもので「佐原探偵事務所」のロゴが印字されていた。
「どうした? 佐原さんとこ、何かやっかいな事件でもあったのか?」
「‥‥まあ‥‥な‥‥」

4月初旬の深夜というのを割り引いても、外気はかなり冷たい。だがその分、空はきれいに澄み渡って星が綺麗だった。喫茶店の外階段に、どこぞの夜遊び少年達のように座り込んだ二人の男は、ただ黙っている。そのうち、沈黙に耐えきれなくなったように、黒羽が口を開いた。
「あの人が‥‥」
「え?」
「‥‥‥おやっさんに、依頼したそうなんだ‥‥。息子を‥‥。黒羽健を捜してくれって」

赤星が目を丸くして黒羽の方に向き直った。黒羽は前を向いたまま話し続ける。
「おやっさん、ああ見えて、お偉いさんに覚えがめでたいのさ。とにかく腕利きで信用できるっていうんで、口コミで広まって‥‥。そんなんで鶴間みたいなとこでも頼む気になったんだろ。だいたい、オレの存在なんぞ、バレたらスキャンダルだ。警察にも頼めねえしな‥‥」
自嘲気味にそう言った黒羽の様子に赤星の口元が苦しげに歪んだ。植え込み内の庭園灯に照らし出された黒羽の唇は赤みが失せている。こんな軽装でいつからここに居たのか。身体がかなり冷えているようだった。

「狸だからな、おやっさんは。オレを知ってるなんておくびにも出さすに引き受けて、あとはお前の気持ち次第だと‥‥。あの人が、おやっさんに書いた手紙のコピーも入ってた」
黒羽は少しおずおずとした感じで、封筒から紙の束を引っ張りだすと赤星に差し出した。目線はこちらに合わせず書類の上に落としたままだ。赤星は内心は驚いた。だが一瞬の躊躇も見せることなくそれを受け取ると、無言でジャンパーを脱ぎ、黒羽の背中にかけてやった。

最初はワープロ打ちの報告書だった。黒羽の母である冴が、23年前、夫が行方不明になってから一週間後、鶴間の秘書の運転する車にはねられたこと。その後丸3年、身元もわからぬままに完全な植物状態になってしまったこと。最初の妻と死別していた鶴間が、その間、誠心誠意、冴の面倒を見たこと。そして、奇跡的に目覚めた冴が、鶴間の求婚に応えて結婚したこと‥‥。そんな経緯が簡潔に記されていた。そして最後には、添えた手紙をよく読んで、どうしたいかお前自身が決めるようにと、佐原の私信が肉筆で数行書かれていた。

古くからの歴史を持つ鶴間の家。その跡取りであった鶴間隆三の熱い情熱は、一人の女性を押し流し、すっかりと包み込んでしまった。彼は親戚一同の反対を押し切って冴と結婚し、彼女を周囲から守りきり、堂々と認知させるに至った。元々美しく控えめで、茶華道のたしなみも深かった冴は、しっとりと鶴間の家になじみ、結婚して3年もした頃には押しも押されもせぬ鶴間家当主の妻となっていた。そんな中で、行方不明になった夫や、置いてきてしまった息子を探すことは難しかっただろう。

「大門の親父殿が今思えばかなり変わったお人でな。お前の親父もお袋も帰る時には帰ってくるし、そうならないこともあらぁなって感じで‥‥。何度か引っ越しもしたし‥‥。そんな調子じゃ、お互い逢えなくてもムリないってとこだな‥‥」
黒羽は投げ出していた足を引き寄せて膝を抱え、赤いジャンパーを身体に巻き付けるように掴んでいる。まるで、今初めて寒かったことに気付いて、衣服に残る友の体温にもぐり込もうとしているようだった。

報告書に続くのは、黒羽の母、鶴間冴本人からの手紙の写しだ。細い万年筆で書かれた達筆はところどころコピーがかすれていたが、内容はわかった。そこにはひたすらに悔恨と懺悔の情が綴られていた。自分が強くあれば周囲に流されずに夫と息子を捜せたのではないか。ずっと苦しんでいた末に、幸運にも立派に成長した息子と会えたというのに、なぜそれを追い返してしまったのか‥‥。

手紙を読みながら、赤星は、母親が見つかったと言った時の黒羽を思い出していた。

初めてだった。あんなに嬉しそうな黒羽を初めて見た。プレゼント探しに嬉々としてデパートを巡る黒羽なんて想像もできなかった。見てるだけでこっちまで天に昇る気持ちがした。
それはひたすらに、この友人が、淋しさをひた隠しにしていたことの証であって‥‥。黒羽のはしゃぎぶりが派手であればあるほど、今までどれだけ哀しい思いをしてきたのかと思った。だけど、それもこれで終わる。その空洞も、もうすぐ埋められるんだと信じていた‥‥。それが‥‥‥‥‥。

鶴間冴の手紙は、息子に会って謝りたい。どうか息子を捜して欲しいという、悲痛な願いで終わっていた。そこからは、紛う方の無い、一人の母親の心の声が聞こえてくるようだった。

手紙から顔を上げた赤星は、読んでいる間中息をすることを忘れていたかのように、大きく、しかし密やかに息を吐いた。そして丁寧に二種類の書面を折り畳むと封筒に入れる。
「‥‥よかったな。ほんとに‥‥」
淡いブルーの封筒を黒羽に差し出しながら、しごく素直に言葉が飛び出した。

だが、黒羽はそれを受け取りながら低く呟いた。
「‥‥お前は‥‥そう思うのか? オレは‥‥あのまま忘れてくれたほうが、よかった‥‥」
「なに云ってんだよ。お前、あんなに逢いたがってたじゃねえか。前の時はきっと、お袋さん、びっくりしちまったんだよ。でも落ち着いて考えて、やっと‥‥」
「オレは、もう逢わない」
「おい」
「もう逢わない。どんな形であれ二度と逢わない‥‥。そう決めたんだ‥‥」
「黒羽‥‥」

黒羽が受け取った封筒を両手で持ち、宛名をじっと見つめた。
「あの人が幸せでやってくためには、オレはいない方がいいんだ‥‥。笑い話にもなんねえ。鶴間みたいな家の奥方が、どこの誰かも分らない男との間にガキ作ってたなんて‥‥」
「そういう言い方すんなよ!」
声は抑えているが強い調子で赤星が言う。だが黒羽は構わず言いたてる。
「オレがバカだったのさ。いつまでガキじゃあるまいし。いまさら逢ったからってなんだってんだ。あの人は、オレやオレの親父なんか金輪際忘れて、幸せにやっていってくれりゃあいいんだ。‥‥名乗るんじゃなかった‥‥。幸せだってわかれば‥‥、それで満足してれば‥‥‥」

友の声音に、赤星の口元が開きかけて少しわななく。やっと言葉が形になった。
「あん時は‥‥俺が悪かったんだ‥‥。俺、てっきり‥‥。‥‥‥でも、お前が会いたいって思った気持ちが間違ってたはずがねえ。生き別れになった親に、逢いたいと思って何が悪い?お前の親父さんやお袋さんにどんな事情があったって、お前にはなんの責任もねえんだ‥‥」

無言だけが返る。赤星は視線を落とし、街灯がアスファルトに描いた光の輪のぼやけた縁を見つめた。
「俺は、その手紙読んで、嬉しいと思った。お前のお袋さんが、お前のこと、ずっと思っててくれたんだってわかって、嬉しかったんだ‥‥。実際はいろいろ難しいことがあると思うよ。でも、一緒にいられなくても‥‥、お前の言うように、二度と逢えないんだとしても、お前に対するお袋さんの気持ちがわかってよかった。‥‥‥そう思ったら‥‥ダメか‥‥?」

赤星が黒羽をそっと窺う。端正な横顔がかすかに横に振られたのを見て言葉を続けた。
「むりやり逢えとか、そんなんじゃないんだ。お袋さんの気持ちがわかって、お袋さんもお前の気持ちがわかってくれたら‥‥。それに、だいたいこのまんまじゃ、きっとお袋さん、幸せになんかなれねぇ気がするし‥‥」

「‥‥‥‥それは‥‥そうかもな‥‥」
しばらくの沈黙のあと、黒羽が小さくそう言い、赤星を見てほのかに笑んだ。
「‥‥逢うのはダメだ‥‥。きっとダメだ‥‥‥。でも‥‥少し‥‥考えてみるさ‥‥」
赤星の顔がふわりと明るくなった。いきなり左腕を黒羽の肩にまわして、ぎゅっと抱き寄せる。
そのまま空を見上げて、珍しいモノを見つけた子供のような声で言った。
「あ! 月が出てる」
東の空の低い位置に、ゆりかごのような少し太めの三日月が、淡く輝いていた。

「三日月って、こんな時間に出るんだったか」
「ありゃ、下弦の三日月っていうか二十七日月っていうか、これから新月になる月だからな」
赤星は黒羽の肩から手を放し、道路までぽんと飛び降りるとイタズラっぽい表情を浮かべた。
「下弦の月って、なんで下弦の月ってゆーか知ってる?」
「いや、理由までは考えたことがないが‥‥」

赤星が立ち上がると月を指さし、西の空に向かって大きな弧を描いた。
「あの月がぐるーって回っていって、西の空に沈む時、あのへっこんでる方‥‥つまり弦の方が、下になるだろ? だから下弦の月。下弦の月は夜中過ぎに昇るから見る機会が少ねえんだよ。上弦の月は満月に向かう月でさ。太陽が沈む時には真上かもうちっと西の空にいて、夜中ぐらいに弦を上にして沈む。そんな時間だから見る機会が多い」

赤星が得意げな顔で黒羽を見やる。黒羽は苦笑して頷き返し、続きを促した。
「今、太陽は俺達の足の下よりちっと東の側にいる。だからあの月がもっと高くなった頃には既に太陽が出ちまうから、あいつが弦を下にして沈むトコは、誰にも見えないはずなんだ。なのに『下弦の月』って言われるのが、なんか面白くてさ」
「‥‥沈むところは‥‥誰にも見えない‥‥か‥‥」

「下弦の月は、そのうち太陽に追い付かれる。太陽と重なったら見えなくなって、それが新月。でもさ、空から消えちまって、見えない月を"新"月って呼ぶのも、なんかプラス思考っぽくていいと思わねえ? ‥‥‥‥って、何笑ってんだよ?」
「いや‥‥。旦那が、そういう話のできるお人とはね‥‥」
「そっかな。月の満ち欠けって、太陽と地球と月の位置とかいろいろ書いて考えちまったけどな」

と、赤星がいきなり自分の腕をごしごしとこすった。
「おーっ なんか冷えてきた」
黒羽が慌ててジャンパーを返そうとしたが、既に彼の両腕は力強い手にがっしと掴まれていた。
「もう入ろうぜ。な?」
赤星がとんっと階段を登りざまに相手の身体を引き上げる。黒羽はそのままドアの方に向きを変えさせられた。だが、背中を押されても黒羽の両足は重い。その肩のあたりで沈んだ声がした。
「‥‥ごめんな‥‥‥‥」
黒羽は少し驚いて振り返った。

赤星は哀しげな笑みを浮かべて、黒羽を見ていた。
「考えたいこと、いっぱいあんだろうに、こっちのことで手一杯にさせちまって‥‥。今、お前に抜けられたら、俺、ほんとに回らなくなっちまう‥‥。‥‥でも‥‥。ほんとに、ごめん‥‥」
「‥‥いや‥‥‥‥」
左腕に触れている赤星の手を軽く叩き、黒羽はくるりと向き直ると、今夜、初めて、はっきりと笑んだ。
「オレはそれなりに楽しんでるさ。お前と付き合うことも、この仕事もな」
羽織っていたジャンパーを脱いで、赤星の肩にかけると言った。
「色々悪かった。もう、寝ないといかんな」
「ああ」
赤星は先に階段を駆け上がると、ドアをそっと開け、黒羽に先に入るように促した。いつも見慣れたその笑顔が、今夜は全身に染み込んでくるような気がした。

さっきまで、あの異界の男の血を引くこの身は、この施設のどこにも居場所が無いように思えた。
だが、自分が自分である限り、取るべき行動は決まっている‥‥。そう決めたはずだった。人類最大のタブーに触れることになろうとも‥‥。‥‥母のかつての伴侶を、斬ることになっても‥‥‥‥だ‥‥。

何が正義か。何を持って正義と言うのか。

常に真摯に正義のイデアを模索することは肝要だ。だがたぶん、万人に共通する正義など決して定義できない。だから、最後は己の正義を信じるしかないのだ。今、目の前にいる男もまた、常に己の道を歩いてきた。こいつの終着点も、たぶん自分のそれとは重ならないのだろう。それでも、今、二人の求める方向はほとんど同じで、道連れとしては申し分がなかった。‥‥それに‥‥。

こんなに無邪気にオレを受け入れて、引っ張り起してくれるヤツも、そういないかもしれんな‥‥。

黒羽はもう一度、はにかんだような笑みを浮かべ、ゆっくりと階段を上がった。二人の男が建物の中に消え、外の照明が消える。淡い光を放つ下弦の月だけが、ただ、それを見ていた。


===***===

その衛星の輝面は昨夜より明らかに細くなっていた。衛星の公転と、この惑星の自転と、この系の中心である太陽の織りなすゆるやかなショーだ。

冷たい夜気がブラックインパルスの兜を脱いだ頬をなぜる。暗黒次元にはないこの空気の動きがしごく心地よい。鳩尾の奥に熱を感じるのは、まだ身体が順応していないのだろう。

男は夜空を見上げ、深く一呼吸すると、小さな赤いカプセルを口中に含んでごくりと飲み込んだ。その化学物質が体内に埋め込まれたバイオアーマーを活性化させる。意志無き生体であるその不思議な塊は、神経繊維と同様の細い触手と酵素を大量に宿主の体内に放出した。黒騎士の類い希なる運動能力はさらに数倍にも増加し、神経伝達スピードが異常に高まる。同時に表皮から分泌された化学物質は、今彼が身に着けている鎧を一緒くたに取り込んで、強靱な外殻を形作った。

無数の虫が身体の内と外を蠢くような気味の悪さが一瞬だけ訪れ、すぐに異様なまでの高揚感が満ちた。どんな些細な動きも見逃さない視力が宿り、そして恐ろしいまでの力が、この腕一つにも潜んでいるのがわかった。

既に道は残されていなかった。
今まで歩いてきた道と同じように、まったく脇道の無い長い一本道が、男の前にただ続いていた。

異形が昂然と面を上げた。黒い空間に貼り付く柔らかい反射光は、クリーム色を帯びて不思議に優しく、何かをすくいあげるような形をしていた。

欠けゆく月を見上げながら、異界の男は、己の掌の中からこぼれ落ちていった存在を、過去という色で塗りつぶそうとしていた。


===***===(おわり)===***===
2002/11/21
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