第25話 下弦の月
(1) (2) (3) <4> (5) (6) (7) (8) (9) (戻る)

「脳に入るって例の寄生虫、やっぱりてめえらの仕業なのか、アラクネー」

赤星は正面の華奢な立ち姿を見据えた。黒羽の的確な初期消火と駆けつけた消防のおかげで火は消し止められた。だが、国立感染症研究所寄生動物部の実験棟は当分使い物にならない。広東住血線虫に似た症状を引き起している病気の研究は、たぶんここを中心に行われるはずだったのに‥‥。

「もうわかったの? やるじゃない。でも安心しなさい。このアトリスのワームにも寿命はあるわ。ワームが死ねば、宿主は助かる」
「なに〜? あんたらいったい、何考えてんだよっ!」
思わず黄龍が怒鳴る。何か実験めいたそのやり方が、はったりめいてひどくイヤらしい感じだ。
「洗礼の準備よ。ワームの寿命は二週間。でも体力が無い者はもたないでしょうね。スパイダルの属国に軟弱な人間はいらない。不適切なものは淘汰するのが当然だわ」
アラクネーは教科書でも読むように、淡々と言った。

「‥‥あんた‥‥。自分のやってること、どこまでわかってんだ?」
赤星の声は少し揺らいでいたかもしれない。寄生虫を使って身体の弱い者をふるいにかけようという、その発想にぞっとする。そしてそれをこんな少女が指揮していることにも‥‥。
スパイダルに"性別"があるのかどうかわからないし、こちらの常識を当てはめてはいけない。それでもこのアラクネーという幹部は、どこをどう見ても"少女"に見えた。度胸と高い知能を併せ持ちながら、その精神はアンバランスに未成熟な感じがした。
「生きる力の無い者は所詮それまで。それだけのことよ」
少女はただそう言い切った。

「‥‥そのワームとやら、あんたの能力なのかい、アトリスさんよ?」
赤星の反対側にいる黒羽が、いきなりアラクネーの隣の怪人に話しかけた。
「敵さんながら、すげえもの持ってるじゃねえか」
「げっへっへ。そーだろー!? オレ様の自慢の子分たちだーぜ!」
ぼこぼこごつごつとした亜麻色の皮膚に覆われたアトリスは、その大きな顎を少し上向き加減にして自慢げにがなった。
「ほう‥‥。じゃあ、お前さんが死ねば‥‥?」

アトリスがざっと黒いスーツの方に向き直ると、好戦的に言った。
「もちろん、死ぬぜ。あいつらもなぁ! やってみるかい、そのヤワなガタイでよぉ!」
「いい度胸だ」
黒羽は静かにそう言うと、柄だけになった状態のブレードを無造作に振り下ろした。ぶぅん‥‥という振動が空気中を伝わって、エネルギーによって形作られた刃が生じる。剣の形の空間に圧縮して閉じこめられたリーブ粒子は、気体の性質である激しいブラウン運動を行いながら、固体と同様の結束力を持つ。何かに衝突すれば相手を分断しても、自らはその形状を保持しようとするのだ。

だが新型ブレードの発するエネルギー以上に、黒羽の身体を包む怒りのオーラの方が迫力があると、隣にいる瑠衣は思った。
黒羽は戦う者と守られる者の間に明確な線を引くタイプだ。半年前、瑠衣がオズリーブスに加わった時、それでもしばらくの間、思い切れない感じだった赤星と対照的に、黒羽はぴしりと明確だった。戦うと決めたのなら覚悟を据えろと、最初の頃の練習相手になってくれたのも彼だ。そんな黒羽だからこそ、守られる者‥‥つまり一般人が明確にターゲットになった時、その怒りは倍増するのが常だった。


切っ先を下げたまま、黒羽がアトリスに向かって突進したのがスターターになった。怪物は牙をむいて身構え、黒い姿めがけて鋭い爪のある腕を振り上げる。が、黒羽の背後から瑠衣が飛び上がり、そのままスティックを化け物の口に突き込んだ。水分のある口内に高電圧が激しくスパークする。アトリスが暴れ様、その華奢な身体を捕まえようと手を伸ばした。
だが、今度は瑠衣の判断が早かった。躊躇いもなくスティックを手放すとそのまま跳んだ。続いて飛び込んだ黒羽が、瑠衣のスティックをぽんと後ろに弾き飛ばすと激しく切り込む。驚くかな、その乾いた溶岩のような皮膚は新型のブレードをもはね返した。


アラクネーが放った糸は向かってくる赤星の頸部を的確に捉えた。そのまま絞り上げようとしたが、赤い右腕が既に糸の輪の中に入っていた。輪を引き広げ、相手の虚を突いてぐんと引き寄せる。重心の泳いだ細いボディに左拳が入った。アラクネーは胃液が逆流する苦痛と不快感に思わず呻いて退く。剣や銃は相手にしたことがあっても、こんな肉弾戦には思考がついて行きにくかった。


怪物の背中側に跳んだ瑠衣の身体が打ち飛ばされた。アトリスは後ろに目があるかのように、太い尾を華奢な身体に叩き付ける。そこに斬りつけたのは黄龍のブレードだった。牽制のつもりだったが、なんの弾みかその尾がすぱんと切れた。黄龍は倒れた瑠衣の身体をすくいあげると、たん、と跳びすさった。

「あ‥‥っ‥‥」
着地してアトリスに向き直った瞬間、その長身が足元をすくわれるようにつんのめった。
「イエロー?」
黄色いスーツの右脛から足首にかけて、そして左足首から足先まで、亜麻色のセメントのようなもので固められている。
「な‥‥っ なにこれっ?」
「ヤツの体液だ!」
切断された尾の先から飛び散った粘液上のものが、地面にべしゃりと付着した瞬間に固まるのを黄龍は驚きの目で見て、そして叫んだ。
「ブラックッ!」


カキンッと何度目かの金属音が響く。翼のエッジを三日月型の刃が受け止めた音だ。伸びてくるパールグレーの両腕を、すんでのところでかいくぐり再び離脱する。輝はホーネットがアトリスの援護に行くのをなんとか阻止している。だが1対1で明らかに力負けしていた。

体勢を立て直した輝の視界の中で、ホーネットの左肩、リーブラスターの銃創にブレードが突き込まれた。逆手に持ったブレードとホーネットの頭部を掴んで、ロボットの背中に飛び乗っているのは赤星だ。と、彼の左腕がブレードごと相手の身体の中に吸い込まれた。
「リーダーッ!」
輝は思わず叫んだ。次の瞬間、ずん、という重い音と共に、ホーネットの右腕と翼が裂け飛んだ。

転がって立ち上がった赤星が、しばし左腕を抱え込むように動きを止めた。
「レッド!」
「早く、あっち行け!」
駆け寄ろうとした輝をぴしゃりと遮ると、無事なのを示すように左腕をぐるぐる回した。ブレードをブラスターに変化させ、相手の体内で撃ってわざと暴発させた。リーブライザーで前腕をガードしながらの乱暴な賭けは、赤星の勝ちだった。
「てめえの相手は俺がする!」
仲間の元に急ぐ輝の姿を隠すように、ホーネットとアトリスの線上に赤星が立ちふさがった。


アトリスは振り下ろされるブレードを前腕で受けたと思った。が、煌めきが急に消滅する。左胸に鈍い圧迫感が生じたと思ったら、それがいきなり灼熱のように熱くなった。
フェイントを使った黒羽は、相手の左胸に当てた柄からいきなりエネルギーを放出させた。粒子流の圧力に抗するように柄を押しつける。この怪物は甲羅のつなぎ目のように見える部分ですら切り込めない。逆に皮膚が厚くなってひび割れた部分にぶち込んでみたが、正解だったようだ。

そこに黄龍の叫び声が聞こえた。
「離れろ! 早くっ!」
同時に傷口から白っぽいものが吹き出してた。黒羽は相手の身体を蹴り飛ばすようにして飛び退く。右手は間に合わなかった。だが逃げるのがもう少し遅れたら、頭部から上半身のかなりの範囲をやられていたところだった。

「げっへっへ‥‥。やるじゃ‥‥ねーか!」
左胸を深く貫かれながらもアトリスはしっかりと立っている。その隣にアラクネーが駆け寄った。
「アトリス!」
「おー、ねーちゃん! 見てろよーっ 土産に一匹、血祭りだーぜっ」
相手の動きを奪う亜麻色の粘土は、アトリス自身の傷口を覆い、再び硬化を始めていた。

黒羽は石のようになった利き腕を相手の死角に置き、半身で怪人を睨め付けた。ブレードの柄、つまりリーブラスター本体も亜麻色の石で覆われて使い物にならない。この腕ではチェリーも使えない。歯がみした時、複数の、それも普通の人影が自分の後ろに回り込むのがわかった。
「無理だ、下がれ! 危険だっ」
叫んだ黒羽の右肩が強く引かれると同時に、西条の声が響いた。
「撃て!」
黒羽を押しのけて、険しい顔つきで引き金を絞っているのは早見。その向こうに西条がいた。アトリスは10人近い警官隊の連射を浴びた。だが‥‥。

アトリスが耳まで裂けるかというように大きく口を開けた。そこからひゅうっと赤い帯のようなものが繰り出される。その先端から、何かが放たれた。

「うっ!」
「なんだよっ」
西条が、早見が、そして警官達が、顔や首、手など、露出している部分を押さえてうずくまった。
「先輩! 早見っ!」
「それがオレ様のワームだーぜっ!」
アトリスが勝ち誇ったような声をあげる。
「前回みたいな卵じゃねー! 一挙にノーミソまで駆け上がるぜーっ」
「貴様ぁ!!」
効かない素手のまま飛び出た黒羽に、アトリスはにたりと笑って襲いかかろうとした。

「ブラックっ」
輝が疾風のように飛び込んできた。後ろ手に自分のブラスターを黒羽に向かって投げる。そのままアトリスの頭にとびかかり、三日月刀で斬りつけた。
「こっちよ、怪人さんっ!」
どんな騒音の中でも絶対に聞き逃せない高い声。宙高く舞った瑠衣の動きを、アトリスの視線が思わず追った。顎が上がったその瞬間、傷口を覆って盛り上がったばかりのその左胸に光弾が飛び込み、シェルモードの射出音が空気を震わせる。なんとかここまで来た黄龍だが、この両足ではどうしても相手にこちらを向いて貰う必要があったのだった。

さしものモンスターが喚いた。瑠衣に向かって苦し紛れの長い舌が延びる。それを掴み取ったのは赤星だった。ホーネットを殴り飛ばしたばかりの右腕がまだ淡い光に包まれている。引きずられそうになりながら、全体重を乗せて気味の悪い帯を引っ張る。
「ブレードモード!!」
輝のブレードを振りかざした黒羽がその舌を両断した。

「スターバズーカ!」
黄龍の右手が高く上がる。4人が一気にその元に集まった。同時に‥‥
「引くわよ!!」
アラクネーの鞭のような言葉が響き渡った。ホーネットの腕を捕えてロボットごとシュンっと短く移動したアラクネーは、暴れるアトリスの肩を掴み、そして消えた。

後に残ったのはまだひくついている赤い舌と、焦げて落ちたロボットの右腕と翼だけだった。


===***===

予備室の隅の作業机の上で、輝がのみの背を打つたびに、テンガロンハットを取った黒羽の額に汗が浮いた。だが固められた右腕を後輩に預けたその表情はいつものままだ。見ている黄龍の方がよほど痛そうなしかめっ面をしており、その隣にいる瑠衣も心配そうに手を揉み合わせていた。

黄龍の足はもう解放されている。小さな欠片も採取してきたが成分がよくわからない。化学的な手を用いるのは危険そうだった。そこで分光器で調べて薄い部分や気泡の入っているところから物理的に輝に壊してもらうことにした。着装を解除する際に石の内側をリーブ粒子が流れたおかげでだいぶ取れやすくなったのは確かだった。だが骨まで響いてくるような振動がかなり不快なのは事実。黒羽の腕の傷はまだ完治しているわけではない。そう思うと見ている方が引きつってしまう。

赤星は特警の対策本部に参加中。葉隠や田島、有望はアトリスやホーネットの残した慰留品や戦闘ログから、必死に対策を練っている最中だった。

最後の石がぱかりと割れて、黒羽が大きく息をついた。
「ふう‥‥。やれやれ‥‥。助かりましたよ、坊や」
「あー、よかった‥‥。緊張しちゃったよっ」
ひたすらに反響に集中し続けた輝は、汗まみれの顔でほっとしたように笑った。
「2人とも、お疲れさん。ほらよっ」
黄龍が上からとってきたおしぼりの袋をぱんと割って、すっと差し出す。
「ありがとっ エイナっ」
「なかなかいい手つきじゃないですか、瑛ちゃん?」
2人はくすくすと笑ってそれを受け取ると、遠慮せずに思いっきり顔を拭いた。
「麦茶入れましたー! 喉かわいたでしょ?」
「あ、オレもう、からっからだよーっ」
瑠衣の声に、輝は急いで道具を片づけた。

カラカラと氷の音をたてて4人が麦茶のグラスを手に取った時、ちょうど赤星が入ってきた。黒羽と黄龍の顔を見て、ほっとしたように微笑む。
「なんとかなったみてえだな?」
「ま、こちらには名匠がおりますからね」
黒羽が解放されたばかりの手で、輝の肩を軽く叩く。輝は苦笑して言った。
「でも、のみの刃、完璧にだめにしちゃった。石打ちのたがねじゃないんだもんね」
「あーらら。そりゃOZで弁償だな、赤星サン?」
「まったくだ。とにかく輝、サンキューな」
赤星は少し笑ったが、すぐに険しい眼差しになった。他の4人の表情もすっと引き締まる。

「西条さんや早見さん達も入院した。症状は今朝の患者たちより、だいぶ悪い状況だ」
「‥‥‥‥先輩や早見が‥‥あんなもんで死ぬはずはねえ‥‥‥‥」
黒羽が呟くように言った
「ああ、俺もそう思う‥‥。だけど今朝運び込まれた患者の中には、老人や子供もいてもって三日って診断の出てる人もいるそうだ」
「とにかくなんか治し方とかねーのかよ? そうだ、あの舌は?」
そう訊ねてから黄龍は、思い出すだけで気色わりーと、震えるマネをした。
「筑波にヘリで移送した。あそこのほうが多角的に調べられるからな。あれ無しでもワームってのばらまけるのかどうかはわかんねえけど、これ以上被害が広がらないことを祈りたい気分だよ。ただ、先生たちの話じゃ、治療法についちゃあんま期待しないでくれって。ま、それができるなら、広東住血線虫の治療法だってとっくに見つかるってのが道理だもんな」

輝ががばっと立ち上がった。倒れそうになったグラスを瑠衣がぎりぎりで捕まえる。そんなことにはお構いなしに、輝が宣言するように言った。
「オレっ すぐ探しに行けるよ、アイツのことっ! どこ行けばいいのっ!?」
赤星の表情がふっと和み、茶目っ気を含んだ声で言った。
「まずは仮眠室かな」
「え?」

赤星が輝、黄龍、瑠衣の顔を順に見た。
「こんど、あの怪人が出てきたら、一発で決めなきゃなんねえ。警察も、俺達がアイツだけに集中できるように体勢を整えてくれてる。博士達の結論も小一時間で出るだろ。そしたら声かけるから、それまでとにかく身体のケアして休んでくれ。その時に全力が出せるように」

自分や黒羽と、3人との最大の相違はスタミナだと赤星は認識していた。スーツの完成度も手伝って着装しての戦闘についてはもうまったく心配ない。だが、長期戦になった時、やはりスタミナの差は大きい。そしてそれは三人もよく理解していた。素質に恵まれ、その上小さな時からむちゃな鍛え方をしてきた赤星や黒羽の体力に、一朝一夕で追い付こうというのはムリな話だった。

「うん‥‥。わかった。オレ、身体ほぐしてから、ちょっと寝るね」
輝がそう言うと、黄龍も大きく伸びをした。
「考えて見りゃ、俺様、いつもより3時間も早く起きてんだっけ。寝よ寝よ」
「瑠衣も、身体、しんどくねえか? お前は部屋戻ったほうがいいかな」
「ううん。仮眠室でへーき。だってみんなで一緒に行動できたほうがいいもん」

「瑛ちゃん。瑠衣ちゃんに手ぇ出したら、おしおきだぜ?」
黒羽のぼそりとした一言に、黄龍は飲みかけてた麦茶を喉につまらせ、赤星はがくっとコケた。
「この、バカ黒羽っ! んなわけ‥‥」
「だめだめだめっ! オレが真ん中に寝るよっっ!」
黄龍を遮って叫んだのは輝だった。
「おめーだって、オトコだろーがよっ」
「オレはいいんだよっ 妹いるんだからっ」
「それでなんでいいのか、30字以内で説明してみろってーのっ!」
反論しようとした輝の口を、赤星の大きな手がむぎゅっと覆った。

「いーから! 二人とも、寝ろ!」
「へーい」「はーい」
間延びした返事をすると、それでも二人は、やいのやいのと小声で言い合いながら部屋を出ていった。瑠衣はくすくす笑いながらあとに続く。見送った赤星は、三人が部屋を出たとたん、黒羽と顔を見合わせて抑えた声で笑った。

黒羽が腕時計を見やると、テンガロンハットに手をのばした。
「赤星。ちょっと出てきていいか?」
「見舞いか?」
「ああ‥‥」
「お大事にって言っといてくれ。絶対にやっつけるからって‥‥」
「そうだな‥‥。本当にそうせんとな」
黒羽は唇の端でにっと笑うと、帽子の鍔をぐっと引き下げ、敬礼もどきを残すと、部屋を出ていった。




西条も早見も思ったよりは元気そうに見えた。あの時、こちらが片腕を固められたりしなければ、二人も警官隊も入ってくる隙はなかったろう。そんな黒羽の表情を読んだのか、西条は開口一番「かえって気遣いの種を作って悪かったな」と言った。黒羽は言葉を失って、ただ頭を垂れるばかりだった。

ベッドに半身を起した早見は「いい実験台できてよかったって、センセに言われたぜ」とふくれていた。そして「でもオレ、夜勤だったからな。今日は堂々と寝てていいんだぜ!」と得意げに宣言し、オーバーな動作で布団を被るとばたんと横になった。何事につけ騒がしい患者と同室になってしまった西条はちょっと苦笑し、枕から黒羽を見上げて言った。「とにかく焦るなよ。お前達も気をつけるんだ」
警察病院にも重い症状の患者がいた。意識が混濁し、マスクやたくさんのチューブを付けられたその姿を見て、黒羽は拳をぎゅっと握りしめた。

建物を出て、駐車場のはずれに停めた車に向かいかけた時だった。大きな木の下に一人の男が佇んでいた。黒いスタンドカラーを几帳面にも襟元までかっちりと止めている。なのに柔らかいくせのある髪は長めで、少しアンバランスな印象だ。黒いスラックスに黒いサングラス。全身黒づくめだった。

その男が全身から発している気配に、黒羽はひどく動揺している自分を感じた。

信じられないほど腕の立つ人間だ。それに何か恐ろしい感じがする。

なのに‥‥、なぜ‥‥‥‥。
‥‥‥‥なぜ、こんなに懐かしいような気がするのか‥‥‥‥?

男が木陰から光の中に出て、歩み寄ってきた。
「健‥‥‥‥。黒羽、健だな‥‥」

黒羽はごくりと唾を呑み込んだ。掌がじっとりと汗ばんでくる。
正面に立ち止まった男の手が、ゆっくりとサングラスにかかった。

だめだ、取るな。取らないでくれ‥‥。

その素顔を見たいと強烈に願うと同時に、見たくないとも思った。

男は少し俯き気味にサングラスを取ると、頭を軽くふって髪を払い、まっすぐに黒羽の顔を見つめた。
「久しぶりだな、健‥‥。覚えているか‥‥?」

忘れるはずがなかった。枚数こそ少ないが写真だって大事に持っている。それより何より、自分の胸の中のただの映像だったものが、いきなり色彩を帯びて動き出すこの感じが、全ては真実だと告げている。

「‥‥おとう、さん‥‥?」
黒羽の唇が、頼りなく、その言葉を紡ぎ出した。男はふっと微笑んで、言った。
「‥‥そうだ。‥‥立派になったな、健‥‥」

なぜ、写真とも、記憶とも、変わっていないのかとちらりと思った。だが、その時はそれでも筋が通るように思えた。黒羽はふらりと男に近づき、もう一度確認するように言った。
「お父さん‥‥なんですね?」
男は微笑んで深く頷き、息子に歩み寄るとその肩を抱くように腕をあげた。

次の瞬間、まったく無防備だった黒羽の首筋に鋭い手刀が落ちた。

ブラックインパルスの腕の中に崩れた黒羽健は、意識を失ったまま、異界の男とともにその空間から消えた。


2002/10/15

(1) (2) (3) <4> (5) (6) (7) (8) (9) (戻る)
background by La Boheme