第28話 欲説還休
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「いつもご足労ありがとうございます。私がもう少し身軽でしたら、あるいはね…おや、今日は唐さんもご一緒ですか」
 星亮の後から階段を降りてきた志飛に目を向け、その志飛曰く『白蛇社長』は細い目をますます細くし、口の両端を持ち上げて三日月形のあかい口腔を覗かせた。
「太謝謝イ尓了(いつもありがとうございます)」
「すいません、唐は日本語は…」
「構いませんよ。バイリンガルの楊さんがいらっしゃいますからね」
 バイリンガルってほどの事でも…と早くも疲れを見せ始めた顔を伏せた。
「あの、早速なんですがこれは今回の…」
 と、ジュラルミンケースを持ち上げてみせた星亮の言葉を、ノブを回す以外の手段で開け放たれたドアの音が遮った。
「おらぁ小竹興業!汚え商売も切り上げてもらおうか」
 ずかずかと入り込んできた白いスーツの男は、瞬間、この辺りを仕切る暴力団の鉄砲玉か何かかと思わせた。が、その顔つきは、星亮の経験から言えば、警察官だった。
「そこの二人もだ!動くな!」
 志飛とそう変らないと見える体躯の男が降りてきて言い放つ。続いて現れた、これはまた前の三人に吊り合わないいかにも上等そうなスーツに身を包んだ若い男。
「三人を対スパイダル法により逮捕します」
 星亮の経験もばかには出来なかった。その言葉を皮切りに、四人の刑事は一斉に銃を構えた。銃口は全て李に向いている。
「楊さん…つけられましたね」
 前後左右に銃口を控え、しかし李は落ち着き払って言う。
「…すいませ…」
「まあいいでしょう。ここでの商売も長く続けるつもりは」
 ありませんでしたから、と言ったのだろうか。そこから先は、おそらく声帯がすっかり変わってしまったのだろう。人間の言葉にはならなかった。
 しゅしゅしゅ、しゅしゅしゅしゅ
 と言う、どこかで聞いた音を喉元で掻き鳴らしながら、天井近くまで鎌首を擡げる白い蛇がいた。
「我的天!是我説了的那樣(なんてこった、俺の言ったとおりだ!)」
「那樣的事無論如何好、逃距!(そんな事知るか!逃げるぞ!)」
 刑事たちが蛇に気を取られている隙に星亮は目ざとくジュラルミンケースを引っつかみ、連れ立って這う這うの体でバーを飛び出した。
 階段を上りきりビルの外に出ると、外も地下と似たような騒ぎ。どこから出てきたのか、警官たちが夕闇の中で人々の避難を急がせていた。
「成為了嚴重的事態(とんでもねえ事になっちまったなあ)」
 ケースを抱えたまま、戦渦の街の前に立ち尽くす。この原因に自分がいると言う事が、ケースの冷たさに化けて指先から浸蝕してきていた
「無論如何好、與這個騷動一起逃距。如果遲到了警官們來。(どうでもいいさ、この騒ぎに乗じてトンズラだ。ぐずぐずしてちゃさっきの警官どもが来るぜ)」
 志飛は人の少ない路地を指差し走り出そうとするが、相棒は突っ立ったまま動く気配がなかった。
「早I(おい!)」
 駆け戻って肩を掴むが、肩がこちらを向いても視線は前方に貼りついたまま。その先を追って見ると、騒乱の中に女が立っていた。美人だった。
 女も星亮を見つめていた。化粧気は薄いが形の良い桃色の唇から零れた異国の単語を、しかし、志飛はその意味を推し量ることが出来た。
 女のすぐ後ろで、自分たちと同年輩だろうか。地味なスーツの男が受令器に向かって何事か怒鳴るのを見て、我に帰った。
「…逃距、志飛(…逃げるぞ志飛)」
「因此那樣説著(だからそう言ってんだろ)」
 女を振り払うように踵を返し、これだけは磨き抜かれた逃げの一手。女の、先ほど聞いたものと同じ単語が鋭く飛んできたが、二人は逃げた。化け物から、警察から、女から―――何から逃げているのか、もうよく分からなかった。
 気づけばいつもこうだった。なにものかからの逃げの道行の、終わりはどこにあるか、もうだいぶ前からはっきりと知ってはいたのだ。それでも二人連れなら天井知らずに気も晴れたし、十人も連れ立って行けば最後の穴倉にも笑って入れる。それは人が最後の縁にと抱くには小さすぎる、しかし彼らには過ぎた希望だった。
「稍等、稍等(おい、おいちょっと待ってくれ)」
 気づけば少し後ろに下がっていた志飛が呼び止める。両膝に手をついて肩で息をしていたが、やがて、がたつく膝に拳を打ちつけ始めた。
「沒問題或者 能走ロ馬…(大丈夫か歩けるか…)」
「イ到木眉…即使説的那樣!(くそ…言う事聞け、この!)」
「不可打、隱藏在門中(あんまり殴るなよ。そのドアん中に隠れよう)」
 路地に面した裏口らしいドアを開けると、おそらく居酒屋か何かだろう。既に無人のそこから、外の表通りが見える。人の濁流があった。
「成為了真的嚴重的事…(ほんとにえらい事になっちゃったな…)」
「沒有什麼食物ロ馬。這裡是廚房巴?(何か食うもんないかな。ここ厨房だろ?)」
「不是那樣的情況、是貪食的東西(おい、それどころじゃないぜ、意地汚い奴だ)」
 膝の具合が悪くなったと言うのは方便かと思うほど、いやにてきぱきと板場を漁る相棒に、しばらく表情を忘れた口に笑みが戻った。
「有種種的食物、日本菜看起來也好吃(けっこういろいろあるぞ。日本料理も美味そうだな)」
「膝沒有問題ロ馬?二階休息(膝どうしたんだよ。ちょっと二階上がって休もうぜ)」
 志飛はちゃっかり盆まで調達し、冷めてはいるだろうが盆の上狭しとたくさんの皿を並べ、手には小瓶まで持っていた。
 二階は小奇麗な畳の部屋になっていて、座卓と畳んだ布団以外は何もない。酔いつぶれた客でも泊めるのに使うのだろう。
「一邊進餐一邊可以休息膝。警官在那裡?(さあ、腹拵えしながら膝のご機嫌でも伺いましょうか。おい警官はどうした?)」
「與蛇作戰著。如果暫且休息了去…真的變成那樣的少鬧沒認為(まだ蛇の相手してんだろ。しばらく休んだらずらかろうぜ…しかし本当にあんな騒ぎになるとはな)」
「日本可怕(日本は怖えな)」
 瓶を開け、これもまたいつのまにか調達してきていたコップに注ぐ。
「是那個那樣(全くだ)」
 お前がこんな仕事、とか、お前の膝がとか。言うのは簡単だったし、聞くのも苦にならなかった。何もかも二人で仕出かしてしまった事だ。
 けれど、これは、と星亮は思う。
「対不起、妹妹的事(すまんな、妹なんか)」
「没事儿!…可是(いいよ!別に…しかし)」
 コップをひとなめし、冷めた料理をつつきながら膝を撫でる。
「是美人。想寒暄。(美人だったな。挨拶したかった)」
 と、地鳴りがした。
 金属音ともエンジン音ともつかない重低音と、紙と紙を摺り合わせるような。
 咄嗟に窓の外に首を出すと、キャビネットを繋ぎ合わせて作ったような、しかし途方もなく巨大な人形と、高層ビルにとりついてとぐろを巻かんばかりの白い大蛇が、都会の遠景に浮かび上がっていた。





 大きな事件のあとは毎度、特警本部は野戦病院の様相を呈する。
 特に今回は、集団発生したアセロポッド――調べによれば通常のアセロポッドだったらしいが――に陽動されオズリーブスが遅れた。その上市街戦で繁華街の縦横が大変な事になり、戦いのあとに増えた怪我も多い。が、面々は痛い痛いと文句を垂れつつも元気そのもの。服が汚れた髪が乱れたと、手当てよりも身づくろいに余念のない三上辺りを筆頭に、接近戦が多いせいで生傷の絶えないわりに大きな怪我のないのは柔道の受身のおかげか、今回はあそこが悪かったここも悪かったと一人反省会に熱心な田口、ああここも擦り剥いてるなあと唾をつけてこすったりなどしている若きエリートの見る影もない島、手当てもそこそこにいつもとまるで変らぬ風に煙草をはすかいに咥える柴田、いいから手の空いた奴は報告書まとめてくれと仕事の虫、西条。
 早見は先日からのだんまりを続けている。こういう時三上と2人でぎゃあぎゃあやる定位置を島に譲り、ブラインドに寄りかかる柴田の横に陣取っていた。
「行ってやらねえのか?」
「どこへ」
「女博士だよ」
「星加博士、かぁ…」
 溜息と煙とともに吐き出した、美人の名前。
「俺ぁあん時…」
「いつだ」
「博士の兄貴ってのが出てきた時よ、ああ博士かわいそうだなあって思ったよ。気の毒になあって、まあアカが何とかするんじゃねえかって」
 けれど、それはもう。
「遠くの方からよ…」
 ブラインドに絡まって消える煙を目で追いながら、これを振ったというべきか、振られたと言うべきか、柴田はちらと考えた。どのみち詮無い横恋慕ではあったのだ。しかしこうして早見は、自分が命も投げ出してしまえるただ一人の女を捜して、明日からまたさまよい歩くのだろう。
 あんた、どうやら違ったようだぜ。
 柴田は初めて、あの女博士に礼を言う気になった。いつまでも望みのない道を歩かせておくには忍びない。 
「あの中国人、どうしたかな?」
 逮捕した2人男は、それぞれ別なところに留め置かれた。
「さあな。竹さんは北京の公安がどうとか言ってたが」
「難しくなりそうだな」
 三分の一も減っていない煙草を灰皿に押し付け、俺たちには関係ないかと振り向いた顔は、薄情にも普段通りの軽薄顔だった。




 日比谷線、小菅駅下車。面会入口まで徒歩十分。
 徒歩十分、の一言が役所らしい冷たさを放っていたが、聞けば道のりにどこをどう十分かの掲示板があるらしい。
 東京拘置所。
 アセロポッドに変ってしまった人々を元に戻そうと、OZと物性研究所は職員全員で不眠不休の努力を続けていた。その中で、これだけ早くに丸1日の休みがとれたのは、意外にも―――と事件前なら思った事だろう。西条刑事のたっての申し出のおかげらしかった。
 大学の後輩だからと言って、学部も違う西条と当時話をした事は、顧みればほとんどない。この事件で関わるようになってからも、話はおろか会った事さえ稀ではなかったか?その縁薄い後輩の自分に、西条は仕事はどうしたと聞きたくなるほどの時間を割いた。
 ほとんど学籍だけの後輩なら、全くの他人も同然ではないか。
 ―――それなのに、こんなにして頂いて。お世話になりましたわ。
 ―――いや…落ち着いたなら良かった。縁がなくても先輩後輩ってだけでも…な。
 お前にしてみればつまらん事かな。でも何だか無理にでも理由をつけなくちゃならん気がして、いかんな。
 そう笑って肩を叩いてくれた馴染み薄い三年上の先輩の、いつもなら十も年上に見える顔が、初めて実年齢通りに見えた。兄にどこかしら似ている、と思った。
 あとでしなければならないお礼の事を考えながら、有望は森の小路でいつものコーヒーを飲んでから出かけた。
 そう、出る前に資料を持って行こうと、森の小路の自分の仮眠室に寄ってから裏口から出ると、ちょうど郵便局員がやってきたところだった。
 書留です、と渡してきた封筒の宛名は、今店のカウンターに立っている少女の名前。差出人は。
「あら」
 紙にして二、三枚程度しか入っていないらしい薄い封筒を持って、有望は店に戻った。
「瑠衣ちゃん、書留が来てるわよ」
 カップを拭いていた瑠衣は、ちょっと驚くような勢いで首をこちらに向けた。
「……あ、それ」
「柴田さんからですって?どうしたの」
「うん、あのね、捜査の時持ち合わせがないからって、ちょっとだけ貸してたの」
 カップを置いて封筒を受け取る。
「そうなの…それは仕方ないけど、あまりお金の貸し借りはだめよ。それにしてもわざわざ書留なんて、意外と律儀な方ね」
 瑠衣も、そうだと思うわ。そう言った瑠衣に再び出発を告げ、有望は普段使い慣れない線に乗った。


 
 建物はまだ工事中で、受付に行くのに少し手間取ったが、そのおかげで昼休みの時間を過ぎてから待たずに入る事が出来た。
 受付で用紙を受け取り、カウンターで古びたボールペンを握った。

『会いたい人の氏名』
『会いたい人との関係』

 会いたい人、と。
 精一杯の、これが彼らに出来る表現なのだろうか。
 関係の欄に、少し悩んで「兄」と書き込む。
 名前の欄の一番下に、用件と言った欄がある。いくつかの選択肢の中、近況伺い―――
『元気かどうか』
 
 元気か、どうか。
 有望はそこに丸をつけ、整理券を受け取り、差し入れ用品の売店を吟味し、番号を呼ばれ、手荷物を検査され、長い廊下を歩く。
 その先で会った、「兄」と書いた会いたい人は、果たして元気そうだった。

「それにしても吃驚したよ。いきなり出てくんだもんなあ…あんなとこに出てくるなよ」
「私だって吃驚したのよ。まさかお兄ちゃん…本当にいると思ってなくて」
「俺だってだよ。あ、あそこにいたならさ、あのでっかいロボット見たか?」
「見たわ」
「中国でもテレビでやってたよ。本物が見られるなんてな」
「大きいでしょう。でも前のはもっと大きかったのよ―――2台目なの」
「買い換えたのか?」
「ばかね」
「お前ほどじゃないよ」
「そうだ、お兄ちゃん」
「なんだ?」
「あの時…最初に会った時」
「ああ」
「どうして、あの子たちにお小遣いなんか?」
「まずかったか?親御さんに叱られたかな」
「そういう事じゃなくて、どうしてお兄ちゃん、あんな事?」
「あーあ、なんでお前そうやって人のやる事根掘り葉掘り聞くのかな。ガキの頃から成長してねえな」
「お兄ちゃんもそうやってはぐらかすところ、全然変ってないわ」
「分かったよ、あれな。なんか、久々だし、ほらつまり…太っ腹で立派な兄貴に見えるかと思って」
「ばかじゃない。お金は関係ないわよ。だいたいお兄ちゃんが立派になんか、時間が経ってたってそんなんじゃないくらい分かるわ」
「ひでえ」

「あと5分です」

「やばいぞ。お前、ちょっと差し入れしてほしいもの、メモしてくれよ」
「ええ」
「まず下着と風呂道具みたいなのが要るな。あと毛布」
「それと?」
「金はあとで払うから」
「いいわ。あの子たちにくれたので充分」
「そう言えばあの子ら」
「なあに?」
「あの金、何かためになるもの買ってくれたかなあ―――」





前略 桜木瑠衣殿

この度 貴下の犯人逮捕ご協力に感謝するとともに お預かりした証拠品を返却するに当たり本来直接お返しすべきところ、多忙の為書留メにてすませました事 深くおわび申しあげます
尚 本件での物品の証拠としての取り扱い方の事情から 返却は小生個人名での書留メになりました事 あわせてお伝え致します

今後とも万全を尽くされたく
お体お大切に

                              於特警本部 柴田丈


===***===(了)===***===
2005/1/7