第28話 欲説還休
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肩から二の腕の擦傷、手の火傷、太腿の裂傷。どれもその場の手当てだけで済む、ごく軽い傷だった。
深さで言えば一番酷いのは、傷口こそ小さいが頬骨の辺りの刺傷。割れたフロントガラスが深々と刺さり、頬骨の表面に傷が入ったらしい。だいたいの治療が終わってそう聞いてはじめて、さほど痛みもしなかったそこに顔がゆがむほどの疼痛を感じるようになったのだから、人体はある程度まで現金でいてくれるものだ。
星亮は、ガーゼで覆ったそこに手を当てた。掌のくぼみにちょうど収まった。
「いて・・・」
手を離すと、がちゃりとドアが開いた。検温かと気休め程度に毛布を整えたが、カーテンの向こうから声をかけてきたのはいつもの看護婦の太った人間特有のくぐもった声ではなく、煙草枯れしたような少し甲高い男の声だった。おお、ここだここだ18号室、と、病院にそぐわない大声が近づいてくる。
「よお星亮!」
カーテンをざっと開けて顔を出したのは、暴走屋の単だった。その後ろで、よ、とでも言うように手提げの紙袋を持ち上げてみせるのは、その単に勝手に兄貴分と決め込まれている相棒の施。
「大丈夫かよおめえ」
カーテンを全開にし、単は近くにあった椅子を引き寄せて施にすすめた。
「今朝電話あってお前んとこの会社のトラックが事故ったっつうからよ、びびって飛んできたんだよ。いや俺ら今日会社いたからよ」
「そうだったのか・・・・すまん、心配かけて」
「ばーろう、誰が心配なんかするかよ。お前も志飛もどうせ叩いたって死にゃしねえんだよ。それよか積荷の心配したね俺は。燃えちまったって?コンテナ全部」
「よく言うぜ・・・・おい楊、見舞いだ」
と、施は紙袋を寄越してきた。饅頭だった。星亮は押し戴いた。
「どうもすいません」
「いや、でも軽くてよかったな」
「そうそう、それで済んでめっけもんだぜ。そうだ、志飛は今寝てるって?」
「ああ、あいつはちょっと怪我ひどくて・・・・足も折ってるし。複雑骨折って言うやつ…」
「奴は体が重過ぎるんだ」
「しっかしまさかお前さんが事故るとはねえ。俺なんか事故る事故るって言われ続けて入社以来無事故だぜ。やっぱこういうのは運の問題だな、ねえ兄貴」
「お前は運不運に関わらずいつか事故る」
「うわっ、ひで・・・」
咳のような笑い声をたてて単が笑う。
「社長は?」
「事故処理で走り回ってる」
「ロクな会社じゃねえからなあ、この件で手入れでもされたら俺ら全員コレもんだ。お前一生恨まれるぜ!」
「リアルだなおい、やめてくれよ」
「怪我人を脅かすなよ単。まあ・・・まずそんな事もねえだろ。とにかく手が足りんから、出られるなら早く出てくれとさ。まあその様子じゃ・・・・」
と、施は星亮の全身を見回した。確かに、少々の痛みを押せばそれなりに仕事が出来そうだった。
「はい、2、3日もしたら仕事に出ますよ」
「そりゃ助かった。お前戻るまで俺らが何とかするからよ」
「頼む」
単に軽く頭を下げると、再び扉を開く音がした。病室の患者たちの名を呼ぶ声は、今度こそ検温の看護婦の声だった。今日は後ろに医師がいた。
「それじゃ俺ら行くわ。志飛によろしくな」
と、単は立ち上がった。
「ああ・・・わざわざありがとうな。饅頭ごちそうさんです」
横の紙袋を少し持ち上げると、それを隣の患者を診ていた看護婦が目聡く見つけたらしい。
「ちょっと!患者さんにおかしな物渡さないで!」
「見舞いの饅頭ですよ」
後ろの看護婦を振り返りもせず施が言う。ただでさえ見舞い客に親切でない看護婦は、特に表情を出していなくてもはっきりそれと解る、刻みこまれたような眉間の皺をますます深めた。
2人はそそくさと病室を後にし、星亮は低姿勢で腕を差し出した。
「院内ではあまり騒がしくしないように」
「すいません、よく言っておきますんで・・・」
とは言ってももう来ないのだけど、と思いながら、星亮はふと顔を上げた。
「すいません先生、俺と一緒に入った奴ですけど・・・あの、唐って言う体のでかい」
「ええ。その事でお伝えする事がありまして」
星亮は4日後の月半ば、そこかしこにガーゼや絆創膏を貼り付けた姿で仕事に戻った。すぐに運送に戻るのは無理があり相棒もいないと言う事で、今月一杯は事務仕事をする事になった。いつもの癖で被ってきた黒いキャップだが、しばらくは必要なさそうだった。
その旨を言い渡され、隅の机を空けられたが、星亮はそこに腰を落ち着ける前に社長の机に向かった。
「挨拶は済んだだろ?」
「いや、ちょっと…」
と、事務員の話を打ち切り、社長の前で黒いキャップをとって頭を下げる。
「すいません社長、これからの俺の仕事の事でちょっ…と」
事務所を出るようドアの方へ手を差し伸べ、訝る雇い主を先に外へ出し、そっとドアを閉める。背は低いが運送屋らしくどっしりした体躯に乗っかった胡麻塩頭が上下して、事故から復帰してきた社員の爪先から頭のてっぺんを怪訝そうに眺めた。
「なんだ、事務の仕事だったら俺じゃなく林にでも」
「いえ、そっちの方じゃなくて…」
「じゃあ何だ」
「その、今はいいんですけど、体が利くようになったら…」
星亮は手に持った帽子を握ったり伸ばしたり、落ち着かない小さな所作を繰り返していたが、やがて少し頭を低くして耳打ちした。
「尹先輩方のお手伝いをしたいんですが…」
社長は細い目を目一杯に見開き、絆創膏の顔を見返した。切羽詰っていた。
寧波まで行って紹興を回り、戻ってきたトラックには鄒と呉が乗っていた。
車中に電話でおおまかな話を聞いただけの二人は、一体どんな惨状を想像していたのか、絆創膏を貼った程度の星亮の様子を見て驚いていた。次の瞬間、無事を喜んで生還者の肩を叩く。
「いて!」
「おっと…悪い、まだ治ってなかったのか」
「違うよ、肩には別に怪我してない」
「ったく…鄒さんの力で叩いたら怪我してなくたって痛いって!また入院しちゃったらどうすんだよ。あっ、でもそしたら志飛の奴とコンビ別れ別れにならずに丁度いいかな」
「おい!なんだその言い草は」
「こりゃ失言」
とにかく星亮さんしばらくはラクに仕事しなよ、と言い置き、呉は助手席に座り詰めだった小さな体を伸ばしながら詰め所に向かった。
「しょうがない奴だな、いつまでも学生みたいな口利いて…そうだ、その志飛は大丈夫か?そのうちあいつも連れて見舞いに行くけど」
「うん、それなんだけどな…悪い、ちょっといいか」
「別にいいよ。どこか…」
「いや、ここでいい。すぐ済むから…志飛の事もなんだ」
そうか、と鄒は手近な木箱に腰を下ろし、星亮もそれに倣った。
「志飛の脚の怪我な、このまんまだと」
「悪いのか?」
「歩けなくなるそうだ」
月が代わり、志飛も病院を替わった。
前の病院より事業所に近く、雰囲気も気安いと言うので同僚たちが3日置きにと言った気分で顔を出す。
「いやあ、ぜんぜん違うな」
ギプスを撫でながら言う志飛の顔色からも、事故直後に収容された病院とは段違いに良い事情が伺えた。
「前のとこときたら、飯はまずいわ看護婦は熊みてえなばあさんだわ治療は荒いわ。比べてここは天国よ、飯も旨いし看護婦は優しい姉ちゃんで、何より治りがいいぜ」
「自分で分かるのか?こんなんで固めてるくせに」
と、その日来ていた、見舞いに来るなど珍しい張が脚のギブスを眺める。怪我はあらかた治り、残すところはこの脚だけ。誰が書いたか、黒いペンで『快点医好』と書き殴ってあった
「分かる分かる。お前、自動車直すのと訳が違うんだからな。自分の身でやってみなきゃ分からんぜ。病院が違うだけでこうも違うもんだな」
「そりゃ…違うさ。整備士だって同じ設備で同じ修理費でも、一番結果に出るのは腕の差だ」
したり顔の段の台詞に、はたと志飛はギプスの膝を打った。
「そうだ、修理費って言や、病院代どうなってんのかな。会社に任せっきりだけど、退院したら貯金ゼロの給料前借なんてなってんじゃねえだろうな」
「貯金なんてほんとにあるのかよ…心配すんな、しばらく生活は苦しかろうが、大したこたぁない。だいたいお前の骨折程度に会社がそこまでする訳ないだろ」
「それもそうか」
「そういう手続きもお前さんの相棒がやってくれてんだからな。退院したらちゃんと礼言っとけよ」
「ああ、そりゃ…しかしあいつ一度も見舞いに来ねえんだよ。何やってんだろうな、相棒が怪我で苦しんでるってのに」
「苦しんでるようにゃ見えんぜ。奴も忙しいんだ、事故のあと事務に回ったのは聞いたろ。そこで手腕を発揮して未だに事務所勤務で大活躍だ。相棒をこのまま事務屋にしたくなかったら、さっさと治して出てくるんだな」
二ヶ月後、志飛はまた病院を替わった。
前の病院で骨の治療を施し、そこの担当医の紹介で今度の病院に移り、次はリハビリテーションに入るのだと言う。少し遠く、交通の便の悪くなったその病院へは、あまり見舞い客も訪れない。たまに電話をもらうくらいだが、
「唐さん、お電話ですよ」
と、看護婦に呼ばれ受話器を取ると、懐かしい声がした。
『もしもし、志飛か』
「星亮!星亮か?」
『元気そうだな。どうだ?脚は…』
「お前こそ元気そうだな!何だよ今まで見舞いひとつ来やしねえ!」
『悪いな、仕事が変わって忙しくて…それより足は』
「ああ、だいぶいいぜ。この電話に出るのだって自分で歩いて来たんだ。松葉杖付きだけどな、何、もうすぐ普通に歩けるようになるさ」
『そりゃ良かった。早く全快しろよ』
早いとこ出てきて俺をこの狭苦しい事務所から出してくれよ。
そう言って星亮は、南京空港の公衆電話の受話器を置いた。
志飛の退院は、その電話から半年後の話になった。
星亮が事業所に戻ってくると、同僚たちに囲まれて、志飛がいた。ドアを開けて眼前の光景に呆然としている星亮を見つけ、駆け寄ってきた志飛の確かな足取りは、星亮を我に返らせた。
「志飛…」
「久しぶり星亮!今帰ったぜ」
「あ、脚…」
と言ったつもりだったが、口をぱくつかせるだけで声が出ていなかったらしい。
「おう、どうしたい星亮。相棒が帰ってきたぜ!」
横合いから咥え煙草の単が背中を叩いた。
「しっかりしなよ。この赤マル、星亮さんが書いたんじゃない」
呉が背伸びして指差した日めくりカレンダーの、今日の日に赤いインクで丸印をつけたのは半年前だった。その時はめくった分の分厚さと、この間に医療ミスでもあるものではないかと言う不安に暗澹たる気分になったものだ。昨日の一枚を破り捨てたのは、星亮ではなかった。
「脚、大丈夫なのか」
「この通り!」
パン、と叩いた大腿は、リハビリの賜物だろうか。事故前より締まって逞しいようだった。
「お前まるで見舞いに来ねえんだもの。もう最後の十日ばっかなんて今とぜんぜん変わりないくらいだったんだぜ」
「そりゃよかった…」
単か呉か、誰が言い出したのか、わっと人が集まり、星亮が帰るのを待っていたように志飛の胴上げが始まった。偏屈の段も混じっての快気祝いを、星亮は床で目覚めた翌朝、何が起きたのかよく覚えていなかった。
慌てて今回の仕事場に行くと、まだ組んでいる尹は来ていなかった。
少し安堵して壁によりかかり煙草を咥えると、肩の後ろからライターが顔を出した。瞬間、先輩である尹に火を使わせたかと緊張し、すいません、と振り返り、頭を下げた。上げたところには見慣れた先輩の鬼瓦顔はなく、皮ジャンの分厚い胸板があった。
「よ」
「…何やってんだ志飛」
志飛は自分でも煙草を咥え、火をつけた。
「お前が来るの待ってたんだよ。驚かそうと思って隠れてたんだ」
でもあんま驚かねえな、と、再びライターの火を差し出す。
「…後つけて来やがったな。もうお前とは部署が違うんだ、早く運送の方に戻れ」
「何言ってんだお前」
いつまでも煙草の先を伸ばそうとしない星亮の痺れを切らし、ライターをしまって代わりに一枚の紙切れを取り出し、勅許でも見せ付けるように広げ胸元で広げた。
顔の前に広げられた行を追って読む星亮を見下ろし、勝ち誇ったように言う。
「今日から尹先輩はもっと上に行くとよ。代わりに俺が入るから、よろしくな」
「…なんで来た」
咥えたままの煙草を唇と一緒に噛み潰し、自分と正反対の表情で恬としている志飛を見上げた。
「呉から聞いた」
「呉から!?」
「お前が俺の脚治すからって、高い病院何度も替えて、いい治療つけてくれたって。俺の脚に入ってんの、骨じゃなくて何とかって言う人工のなんだって?そんで病院代だっつってこの仕事してんだろ。全部俺に黙ってよ、なんか悪くってさ」
いやあ、と異動の書類をしまい、頭を掻いた。対する星亮は、煙草を噛み千切らんばかりに噛みしめる。
「呉のやろう…」
「まあ、あいつばっかり責めるなよ。単とか施さんとか、張も話してたから別に内緒じゃないのかと思ってよ」
「お前なあ」
「うん」
「どういう事か分かって言ってんだろうな。何の仕事だと思ってんだ?社長から聞いたろっ…!」
「馬鹿にすんな。分かってるって…お前ばっかり金払わせちゃいかんと思ってさ。それにほら、お前は俺の命の恩人だし」
「まだそんな昔の事言ってんのかよ。あんなもん俺が事故起こしてチャラだ」
「でもその事故の怪我に金払ってくれたじゃねえか」
「俺が起こした事故なんだから当たり前だろ」
「でも俺も一緒に乗ってたんだしよ、まあ、いいじゃねえか」
「何考えて生きてんだお前」
「だいたいお前ばっかりいい格好すんなよ。コンビ組んでる俺が三枚目みたいだろ」
「その通りだろ」
年の瀬が迫りつつある頃、仕事の時間も迫る中の事だった。
===***===(つづく)===***===
2005/1/7