第28話 欲説還休
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 160kmを投げる、球だけならば超高校級の投手。でありながら、甲子園に出向く事のないまま帰還した星加亮平に対して周りの人々は親切ではなかった。つい数日前までの手放しの賞賛ややっかみと同じように、遠巻きに針を刺してくる冷笑と舌打ち。
 無理のある兄の笑顔は、翌日からの周りの人々の変貌を、「高校球児」の成れの果てを、あらかじめ知っているようでもあった。また負けちまったよ、と、腫れ上がった肩を担いで試合先から帰ってきた兄は、玄関先まで迎えに出た有望にそう言った。それ以外の自分の行動への説明らしい説明は、後にも先にもなかった。
 
「どうしようもない」
「お前には分からない」
 その二言しか。

 兄の弁護は一切しなかった。
 兄に再会した今、改めて思い起こせば、取り立てて仲のいい兄妹と言う訳ではなかったように思う。小さな頃はお兄ちゃんお兄ちゃんと後ろを着いても回ったが、中学高校にもなればそうも行かなかった。道で会っても軽く目で挨拶し素通りするだけ、兄の部活動の事など何部に入っているかくらいしか気に留めない。そういうような、「ごく普通」の兄妹だった。赤星兄弟の仲の良さが傍目に珍しいものであると知ったのは、その頃だった。

 両親は優しかった。普段と変わらず、負け試合などなかったかのように以前と変化なく優しかった。良くも悪くもそれは兄の野球から故意に目を逸らした結果でしかなかったのは目に見えていたが、有望はそんな両親にも何の言及もしなかった。
 赤星にも何も言わなかった。彼が当時の事を知ったのは、大学に入ってからだった。
 今から考えれば、両親とも辛い思いの中で兄を労わっていたのだと分かる。やがて父は、そろそろ頃合と思ったのだろう。たとえ野球しか出来なくてもいい、今からいくらでも他にしたい事をさせてやる、もう一度野球をやってもいい、などと言うようになった。夜中に兄と2人で話しているのを、有望は偶然耳にしていた。
 
 しかしそう言った両親もまた、打たれ弱い気遣い症の兄にとっては、自分の顔を見ずに詰め寄ってくる存在でしかなかったのだろう。噂話の土足でどこへでも踏み込んでくる人々と同等に。
 夏休みが明けるのを待たず、兄は家を出ていった。


「お兄さんが帰ってきたんだって?」
 後ろから言われ、有望は兄の写真から弾かれたように顔を上げた。
「あら、田島博士・・・もう聞いてらしたんですか?」
「ああ、赤星がね、言ってたよ」
 田島がコーヒーを横に置いてくれるのに軽く頭を下げ、有望は頭を現在のOZベースに切り替えた。
「そうでしたの。ええ、今日、物性研究所のすぐ前で。いきなりでしたのよ、なんでも仕事で日本に帰ってきたんだって・・・」
「10年以上も留守にしてたんだってね。・・・それいいかな?」
 と、田島は机上の写真を示す。有望はそれを手渡した。
「そうそう、高校野球の選手だったって言ってたな」
 写真は、高校3年の時のものだった。予選開幕前の練習の合間、と言った場面だろうか。練習用のユニフォーム姿の17歳の兄は、ベンチで麦茶を飲んでいるところを、横から不意のシャッターを切られたようであった。
「さすがによく似てるなあ。この顔で有名な選手と来たら、モテただろ、お兄さん」
「やだわ、そんな事ありませんでした。兄はそういう事が苦手で・・・でも野球部のマネージャーさんが好きだったみたいな事は、兄の高校に行った先輩に聞きましたっけ」
 最後の負け試合でそっぽ向かれてしまった、と言う事も。
「そいつは野球少年らしいなあ・・・・なんだ、私にも紹介してくれたらよかったのに」
「ごめんなさい、仕事だって言って、すぐ行ってしまったもので。でも仕事がひと段落したらまた来るって言ってましたから、その時に」
「そうしてくれよ。ところで、特警から来た例のアセロポッドの資料は」
 と、田島は有望の前のパソコンの画面を指差した。カーソルが中途半端なところで止まっている。
「あっ、あらやだ、ごめんなさいボーッとしてて!すぐまとめますわ」
 田島は写真を置き、笑いながら自分の部署に戻っていった。

 
 あるいは・・・・
 有望は、そうは言ったがまだキーボードには向かわず、もう一度写真を眺めた。
 学生時代剣道部で汗を流していたと言う田島に聞けば、兄の気持ちをもっと深く慮る事が出来るのかもしれない。
 
 例えば、兄が兄でなく、近所のよく知るお兄さん、であったなら。

 子供時代はともかく、学生になってからはなまじ見せられた現実に、有望にとっては醜い、との感想しか抱けなかった集団球技の世界。傍目に美しいチームワークに見えるかもしれないが、その実「連帯責任」と言う名の暗黙の牽制の仕合でがんじがらめ、実力本位と言いつつも厳然たる年功序列の、有望には到底理解出来ない理不尽な割り切れない世界に、好んで身を置き続けやがて追いやられるように去っていった。それでも野球を愛し続けながら、しかし全く別な世界に住んでいる男。
 本当は気が弱いくせに、敵チームと相対しなければならない、負ければ非難を浴びるピッチャーをやっていた男。誹謗中傷を浴びたのなら、跳ね返せばいい、覆すだけの事をすればいい。出来るはずなのに、負けたまま姿を消した男。
 こうだからこう、と言う理にかなった事を一つもしないまま逃げた男。
 
 きっと一つも彼の事を理解出来ないまま、今頃そんな人物の事は忘れていたに違いない。
 現実に兄である男の事も、もちろん理解出来た訳ではない。理解出来ない事を理解できない事として受け入れていただけだ。家族だったから。

 運送会社に就職したと言った。トラックの運転でもするのだろうか。運動神経のいい人間は、車の運転も上手いと言う。だとしたら、だからその職を選んだのだろうか・・・・・そんな想像だけが、兄の行動に有望が付けてやる事の出来る唯一の説明だった。
 やはり田島に聞いても何のヒントにもならないだろう。彼だったら、大切な試合で自分のせいで負けても、絶対に自分の力で立ち直り失敗を覆す成功を収めるだろう。どうしようもない、などと言わず、兄と違って。
 お前には分からないよ。
 確かにそうね、お兄ちゃん。

 でも、私のお兄ちゃん。






 黒羽と黄龍が森の小路に帰ってきたのは、その晩遅くだった。
 赤星と瑠衣が明日の準備をしているをしている時だ。スタッフ用の厨房の裏口から、2人はガタガタと音を立てて戻ってきた。3日ぶりの帰還だった。
「黒羽、黄龍!」
「2人ともおかえりなさい!事務所のお仕事お疲れ様」
 瑠衣は黒羽のジャケットと帽子を受け取ったが、その黒羽はいつもの気障な礼もせず、「おぅ」と唸るように言って、倒れこむように壁際のソファに腰を下ろした。背中をそっくり背もたれに預け、手の甲で目を覆った黒羽は、疲れとともに少し酒気を帯びているようだった。
「おい、どうしたんだよ黒羽!瑠衣が帽子とってくれたんだろ!」
「そういう問題じゃないでしょ赤星さん!・・・瑛那さん、黒羽さんどうしちゃったの」
「ごめ〜ん、ちょーっとね・・・あ、これ邪魔っしょ。いいわ、俺様部屋まで運んでくし」
 そう言って黒羽を指差す黄龍の瞼も腫れぼったく、自慢の金髪にも艶がない。ため息のような欠伸を一つやった。
「いいわよ瑛那さん、疲れてるんでしょ。黒羽さんは瑠衣が運んであげるから」
「いーっていーって・・・瑠衣ちゃんは赤星さんと一緒にさ、明日の準備頼むわ。俺様ももう寝るから」
 と、黄龍は相当凝っていそうな肩を回しながら、半分眠りながら時折うめき声をあげて荒い息をついている黒羽の腕をとった。と、バランスを崩して黄龍もソファに倒れこむ。
「あー、いてー・・・もー何やってんだよ、ホラ健さん立って、風邪引きますよ」
 と、力の入らない掛け声とともに黒羽を担ぎ、またふらつく。言わんこっちゃねえ、と赤星が横から腕を伸ばした。
「いいって」
「いいから、ほら立って。横から支えんぞ、いっせーのーで」
 よっ、と、左右から黒羽の肩を支えて、 『STAFF ONLY』のドアをくぐる。
「お前こそ大丈夫かよ?しんどそうだぞ」
「あー・・・ま、黒羽よりはまだヘーキってくれーだけどねー」
 ベッドとソファと新聞ばかりの殺風景な黒羽の部屋に入り、黒羽をベッドに寝かせて布団をかぶせてやる。と、帽子とジャケットを忘れた事に気付いた。あとで置いておいてやろう、と思った。
 黄龍はソファに腰掛けた。スプリングが跳ね、波打つように黄龍の体が飛び跳ねた。ぐったりと背もたれに体を預ける所作は、普段の黄龍とまるで違って、見栄えよく見えるような仕草への注意がない。それが奇妙にさっきの黒羽に似て、赤星はおかしかった。
「なんだよ、二人して。そんなに仕事大変だったのか?」
 と、黄龍は、のけぞらせた顔で天井を見たまま言った。
「大変つーかねー、ま、しんどいだけだったっつーか。てゆか、赤星さんは気にしなくていーから」
 つっけんどんな言い方だった。自分たちの仕事はお前には関係ない、と言うような気配に、赤星は少し憤慨して黄龍の横に座った。
「そりゃねえだろ、黒羽もこんなんなっちまってよ」
「だから」
 と、黄龍は体を起こす。疲れで気の抜けた表情は消えていた。
「そりゃねーとかそういう話じゃなくて。事務所の仕事だからOZとはかんけーないの。黒羽寝ちゃってっからいーけど、俺様いなかったら黒羽に聞くのかよ。・・・ったく分かってやれっつの」
 最後は独り言になりながら、黄龍は赤星に背中を向けて再び背もたれにもたれかかった。
「あ・・・黄龍、ごめ」
「クスリだよ」
「え?」
 黄龍は背中を向けたまま言った。
「覚醒剤。そういうの調べる仕事。そういう調べものやってて、途中で中断させられて帰ってきたの。瑠衣ちゃんくれーの女の子が被害者になってんの見たら、アンタどうよ。黒羽もたいがいイチイチ凹むからさぁー、だからどーって話じゃねーけど、まあ、2、3日は気ぃ使ってやって。特別な事しねーでいいから、そーゆー系の話題にだけ触れてくんなきゃいーの。あとは知らないフリしといてやってちょーよ・・・」
 黄龍は最後にちらりと顔だけ振り向き、
「俺様ここで寝っから、もういいよ。あと明日っからまた別な仕事で特警行くから・・・・」
 なんかあったらリーブレスで連絡して、と、黄龍は顔を戻し、赤星が立ち上がって場所の空いたソファに横になった。
「・・・分かった。じゃあ、ゆっくり休めよ。おやすみ」
 黄龍はふらふらと片手を振って答えた。
 赤星は音を立てないようにドアを閉めた。自分の仕儀が、ほんの少しでも黒羽の負担にならないように。
 
 



 
 星亮と志飛が取引先の責任者と会ったのは、彼の経営するバーだった。
 歓楽街の奥まった所にあるその店は大きくも派手でもないが、内装や落とした照明の重々しい雰囲気がいかにも高級そうな店だった。企業の社長が趣味を兼ねて寛げるバーを作った、と言ったところだろうか。
「掛けてお待ちになっては?」
 相棒と二人、立ったまま畏まっていると、50代ほどに見えるバーテンダーが言った。
「いえ、このままで結構です」
「是什ノム?(何だって?)」
「説了坐等。社長也沒來、不行。(座って待てってよ。でも社長も来てないんだ、まずいだろ。)」
「想好?叔々、請使之坐(なんだよ、いいって言ってんだろ?おいちゃん、座らしてもらうよ。)」
 と、志飛はどかりとボックス席の一角に陣取った。
「等、不行・・・・・(おい、まずいって・・・・・)しょうがねえな、じゃあ、失礼します」
 星亮はバーテンに会釈し、志飛に倣う。
「責任不持、社長很壞氣。(俺は知らないぞ、社長が来て気ぃ悪くしても。)」
「不要緊ロ約。是公司職員的人巴、因為那個人那樣説著。(大丈夫だよ、あの人社員の人だろ?いいって言ってんだから。)」
「我像イ尓一樣地不能。如果是可怕的社長感到為難。(俺はお前みたいに楽天的になれんな。怖い社長だったどうすんだ。)」
「別擔心、此次也成功。(心配すんなって、今回も上手くいくよ。)」
 星亮と志飛が交渉や挨拶も受け持つようになったのは、ここ四年ほどだった。殺伐とした人員が多い会社で、星亮の容姿と志飛の弁口は重宝がられた。
 星亮は日本人だった。若い頃日本でいざこざに巻き込まれ、二十歳の時逃げるように中国に渡ってきたと言う。密航ではないが、居留証はない。北京で隠れるようにしていた所を、同じような境遇だった志飛に会った。
 志飛は少しの北京語を聞き覚えていた彼に便宜上の中国名をつけ、二人で香港に行った。道々よく喋る志飛のおかげで、星亮は普通に会話するに不自由ないくらいの言葉を身につけていた。志飛に似た喋り方が抜け、星亮らしい口調が身につくのも早かった。言語に関する才能があるのかもしれなかった。十年日本を離れ日本語もほとんど口にしていないが、こうして日本に戻ってきて話す母国語には澱みがない。
 しかし、言語の才能があってもそれが話の巧さには繋がらないらしい。志飛と馬鹿話でもしている時でなければ、星亮はどちらかと言うと訥弁だった。
「不管怎樣、イ尓不可説過多乘情形・・・・(とにかくお前は喋り過ぎるから、前みたいに調子に乗って・・・)」
 と、顔を上げた時だった。
「お待たせ致しました」
 何もなかったはずの前の席に、白い顔が座っていた。
「扈運送の方ですね。小竹興業の李了公です」
 二人は、息を呑んだ。



 楊星亮
 と、何かの紙に書き付けた。
「お前の名前だよ。楊星亮、うん、なかなかかっこいいじゃねえの。二枚目の名前だな・・・」
 志飛は一人で嬉しそうに頷きながら、何かから破いたらしい紙に書いた三文字を眺めている。
「ちょっと・・・OK?」
 たった今名付けられた本人は、その紙を受け取りしげしげと見る。
「Yang・・・・」
「Yang-shing-ryang」
 区切るように言うと、星亮は志飛の口元を見た。どう発音するか知ろうとしたのだろう。そっちに気をとられたせいか手元が留守になり、紙は香港行きの列車の窓からの風にとられて飛んでいった。

===***===(つづく)===***===
2004/1/11