第28話 欲説還休
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 男は、その風体と比べて意外なほど涼しげな切れ長の目を凝らし、内部の何かを見定めるように目の前の有望を見つめる。まじまじと見られて有望は少し顎を引いたが、負けじと睨み返した男の顔に、ふと瞬きした。そのまま見開いた目を、男の視線に合わせる。二つの目は、傍目にも明らかに共通項のある目だった。
 後ろで見ていた翠川と瑠衣は、不意の有望の態度の変化に、頼みの赤星の顔を見上げた。が、赤星も赤星で、有望の肩越しの男の顔を凝視している。
「・・・・お兄ちゃん」
 ぽつりと有望が言った。翠川と瑠衣の驚きの声があがる。
「あっ、やっぱり・・・あの、俺な・・・」
「お兄ちゃん!」
 有望は何か言おうとした男の声を遮り、男のくたびれたジャンパーの襟元を掴んだ。
「おに・・・どこ行ってたのよ!いっ・・・今何年だと思ってるのよ!どうしていきなり研究所になんか来るの!?」
「いや、悪いあの・・・ここに勤めてるって人づてに聞いて、俺な・・・」
「やっぱり兄ちゃん!」
 またも男の言葉は遮られ、赤星が身を乗り出した。
「どっかで見たと思ったんだ、やっぱり亮平兄ちゃんだ!」
「おお、お前、竜太か?」
 男は、有望との対峙から逃れるように赤星に向き直る。
「そう、俺だよ、赤星道場の竜太!」
「やっぱそうか、全然変ってないな!」
 と、後ろの小さな手が赤星の袖を引っ張った。
「赤星さん、お兄ちゃん・・・って?」
「主任のお兄さんなのっ?」
 翠川と瑠衣は赤星を見上げつつ、おずおずと男の顔に目をやった。男は戸惑ったように顎を引き、怪しい者じゃないと言うように愛想笑いを浮かべ、小刻みに頷くようにして頭を下げた。
「おお、紹介するよ。この人、星加亮平さん。有望の・・・・」
 と、赤星は有望に目をやった。と、その目に有望の腕が飛び込んでくる。その手は再び男の、亮平の襟元を掴み、そのまま引き寄せた。
「・・・今頃帰ってきて・・・・・」
 亮平の埃っぽい服に顔を押し付けたまま、震える声がこもって聞こえた。
「いや、その・・・・・・」
 言いよどむのが癖なのか、ただ気まずいためか、亮平は明確な言葉を発せないまま有望の肩を叩いた。
「すまん有望」
 有望はしばらくそのままで押し黙っていたが、やがて思い切ったようにぱっと顔を上げた。いかにも泣いている風だったが、その顔はいつも通りだった。
「ごめんなさい!あんまり急だったから驚いちゃった。久しぶり、お兄ちゃん」
「あ、ああ、久しぶりだな。あ、どうだ、元気だったか」
 亮平は、有望の様子に安堵したのか、狼狽に強張っていた顔つきを和らげた。
「ええ、この通り。ね?」
 と、赤星に振り返った。赤星も笑顔で頷く。ひとしきり頷きあったあと、有望はやっと翠川と瑠衣に目を向けた。
「2人とも紹介するわ、星加亮平。私の兄なの」
「ああ、こりゃどうも・・・こちらは?」
「先輩の娘さんと、赤星の、えーと・・・道場の人よ」
 うっかり何でも言ってしまいそうな所を踏みとどまり、巧みにぼかして紹介すると、2人は自己紹介しながら頭を下げた。
「2人とも、この人家出たっきり13年も留守にしてたのよ。信じられる?」
 最後の言葉は亮平を咎めるように睨みながら、それでも小突く手も嬉しげに見える。
「そんなに経ったか?」
「経ったわよ、だってあの時お兄ちゃん高3だったでしょ、今私27だから・・・・・やだお兄ちゃん、もう31じゃない!お兄ちゃんが三十路だって」
 有望はころころと笑いながら、亮平の腕をトンと突いた。
「そりゃお前、俺だって時間が経ちゃ30になるよ。お前だってすぐなるんだぜ、若ぶりやがって」
「そんな事ないわよ。でもぱっと見て分からない訳だわ、あの時お兄ちゃん高校生よ。すっかりおじさんじゃないの」
 と有望は言うが、亮平はなるほど有望の兄らしく、20代でも十分通りそうな、なかなかの美男だった。身なりさえ整えれば相当なものになるだろうと思わせたが、頬骨の辺りにある無理やり治したような、ごく小さいが醜い傷跡が玉に瑕ではある。それに有望も気づいたようで、
「どうしたのお兄ちゃん、その傷」
「え?あ、ああコレか。これは・・・いやちょっと、なんかで引っ掻いちまって」
 それと敢えて難をつけるなら、このどこか焦ったような、周囲にびくついたとも言える様子か。キャップの鍔の影で、その目は時折小刻みに周りを気にしている。煮え切らないような言葉つきも難と言えば難だった。
「ホント?何やったらこんなになるの。また余所見でもしてたんでしょ」
「いや・・・・あ、そうだ、俺こんな事してらんないんだった。仕事で帰って来てんだ、早く会社帰らんと」
「仕事?・・・そう言えばお兄ちゃん、今までどこで何してたの?」
「あの、中国のさ、運送会社だよ。えっと・・・日本に輸入の仕事でさ」
 そう言いながら、亮平は足元で軽くぴょんぴょんとやった。早く行かないと、と言う事だ。
「中国?中国にいたの!」
 言葉の淀みは、長く中国にいたせいだろうか。
「ああ、そうなんだ。あの〜・・・だから、仕事終わったら日を改めてまた来るから。な」
「そうなの・・・じゃあ仕方ないわ。早くお仕事済ませてよ、お父さんとお母さんにも報せておくから」
 そう言うと、亮平は突然慌てた様子で両手を振った。
「あ、い、いい!家には報せなくていいから!」
「なんでよ!2人とも喜ぶわよ」
「あの、いやお前そうじゃなくて・・・・あのー、ホラ、俺が直接行くから。いきなり行ってさ、驚かしてやんだよ。だから報せんなよ、秘密にしとけ。な」
「ああ、そういう事ね!分かったわ、お兄ちゃんが言うまで絶対内緒ね」
「そうそう、そういう事」
 と、2人は一緒にいたずらを企てる兄妹の顔で笑った。
「ああ、それじゃあ俺もう行くわ。・・・お前ぇ・・・俺がまた来るまで元気でな、竜太も。あ、そっちの子2人も」
 と、亮平はズボンの尻のポケットから、黒い合皮らしい古ぼけた財布を引っ張り出した。
「少ないけど、これ・・・」
 財布を空けて札入れを覗き込む。と、ちょっと表情が変わる。少し逡巡する様子を見せたが、やがて振り切るように札を取り出した。一万円の新札だった。
「これな、5千円札2枚にしてもらって、2人で分けな」
「ちょっとお兄ちゃん、そんな・・・・」
「いいからいいから、とっとけって。お前らどうせこの子らの世話してると思ってホントは遊んでもらってんだろ、お礼だよ。なあ?」
 と、「この子ら」に同意を求める。2人はどうしていいものか、翠川の手の一万円札と亮平の顔を見比べた。
「じゃ、俺もう行くから・・・」
 言うが速いか、亮平は待ちかねたように勢いよく踵を返し、走っていった。が、5、6歩も行かないうちに、足踏みをしながら止まり、振り返った。
「あー、親父と母さん・・・元気か」
「ええ!もう元気元気。お兄ちゃん2人とも老け込んでると思ったんでしょ?まだまだ全然よ、帰ったら怒鳴られちゃうんだから」
「はは、そうか・・・そうかそりゃ良かった。じゃあ、またな」
 今度こそ亮平は走り去っていった。よほど時間が押してきていたらしい。何気ないような走り方からは思いもよらないほどの速度で、あっと言う間に路地の向こうに消えた。





 白いユニフォームを泥だらけにした野球少年が笑っている。
 世の中はこの上なく楽しく、夢中になれる事しか存在しないような笑顔で笑っている。
「ほら、これがお兄ちゃん」
 有望はそんな20年前の写真を指差しながら、自分も20年前の顔に戻って笑った。
 赤星らは有望の家に立ち寄り、子供時代のアルバムを引っ張り出してベースに戻ってきた。謎のアセロポッドの資料整理が終わったらみんなで見よう、と言う事だったが、一度持ってきてしまったが最後、資料整理を放り出して森の小路のコーヒーを飲みながら座り込んでしまったのだった。
 アルバムの写真は、有望たちが小学校に上がったばかり、亮平は4、5年生の頃のものだった。まだまだ幼稚園っぽさが抜け切れていない有望と一緒に、もっと子供子供した赤星の姿もたくさんある。亮平はちょうど生意気盛りなせいか、家族の撮った写真は多くないが、学校や野球部の試合で撮ったらしい写真が多かった。
「お姉さまのお兄さま、野球やってる写真ばっかり」
 アルバムのページをゆっくりとめくりながら、瑠衣は憧れの有望とその兄の可愛らしい姿に目を輝かせる。
 投球練習の写真、ピッチャーマウンドに立ったベストショット、子供ながらしっかりしたフォーム。小さな野球選手は名ピッチャーらしかった。
「いわゆる野球少年だったの。私たちが子供の頃は、男の子はみんなそうだったんだけどね」
「俺は野球してなかったぜ」
「あなたは例外よ。輝君や瑠衣ちゃんには古い話だと思うけど、あの頃はサッカーも少なかったしゲームもあんまりなくて、男の子の遊びって言ったら野球しかなかったもの」
「オレ分かるよっ。オレも小さい頃はよく野球やったもん。オレはあんまりだったけど、周りのヤツはたくさんいたなぁ、野球少年」
「そうね、輝君くらいの年なら、まだ野球って身近よね。・・・お兄ちゃんったら、輝君の事いくつだと思ったのかしら」
 翠川はさっき貰った、亮平の言葉通り有望に両替変えてもらった5千円札を取り出した。
「オレ、お小遣い貰ったのなんて久しぶり。また今度ちゃんとお礼言いたいから、また会いたいなっ」
「そうしてあげて。それにしてもお小遣いだなんて、やっぱりお兄ちゃんももうオジサンね」
「そんな事ないもん、お兄さまとってもステキな人だったよ。お姉さまのお兄さまだもん、かっこよかったなぁ・・・」
 と、瑠衣は、やはり貰った5千円札を両手に握り締め、軽いため息をついた。憧れの女性によく似た男は、やはり憧れの対象になったようだ。
「そうかしら?」
「でもお前、ガキの頃は亮平兄ちゃんの自慢してたじゃねえか」
「あら、それは違うわよ、別にかっこいいなんて言ってないわ。ピッチャーとしてのお兄ちゃんは自慢だって言っただけよ」
 と、有望はアルバムのページを繰った。そのページには、亮平が試合で投げている写真がページ狭しとびっしり貼られてあった。
「お兄ちゃんね、ああ見えても昔は都内でも有名なピッチャーだったのよ。小さい時から速球星加って。小学生でもう100kmを出してたのって、リトルリーグではお兄ちゃんくらいだったんじゃないかしら」
「だったよな。毎日毎日走りこみと投げ込みやってさ、俺も毎日道場の稽古してたけど、あれはすげぇと思ってた。俺、野球以外の事やってる亮平兄ちゃん見た事なかったもんな」
「私もよ。家の外ではホント野球野球で、家でもずーっとボール握ったりしてたもの。おかげで勉強はいっつもボロボロだったけど」
 と、有望はその事がむしろ誇らしげであるように、くすくすと笑った。
「お兄ちゃんね、ホントに小中高と勉強は全然だったけど、いつでもどこでもピッチャーでは1番だったの。バッティングはそれほどでもなくて打順1番とか2番打ってたけど、ピッチングは高校生では最速だったんじゃないかしら。練習試合だって完封試合たくさんやって・・・確か最高球速160kmだったかしら」
「えーっ!すっげーっ!亮平さんってそんなに凄い選手だったんだ!」
 出し抜けに翠川が立ち上がった。
「160kmって、大リーグの最速記録クラスだよっ!?ねえねえ主任、亮平さん、甲子園行ったの?」
 翠川が期待を込めた目で有望を見上げると、それまでさも、その超高校級選手がこの場にいて投げているかのようだった顔が曇った。
「それがね・・・・・・お兄ちゃん、投球は良かったんだけど、守備のちょっとしたミスで都内予選落ちだったの。1年の時はまだ先発投手じゃなくて出番がなくて、2年の時も同じようなエラーで出場出来なかったから・・・3年こそはって言われてたんだけど、それで見せ場が終わっちゃったのよね。・・・・甲子園に出てたらプロの引き合いもあったと思うんだけど・・・・・」
「そうだったの・・・ごめん、オレ知らなくて」
「いいのよ、昔の話だもの。それに甲子園に出なきゃプロになれない訳じゃないでしょ。お兄ちゃんだってプロになりたかったら自分で入団テスト受けただろうし、受けても落ちたならお兄ちゃんもそれだけの実力だったって事だから・・・今の様子じゃね」
「でも、160km・・・勿体ないなっ。亮平さん、きっとテスト受けなかったんだよ。だってどこの球団だって160kmを取らない訳ないもんなぁっ」
 自分が球団のスカウトマンであるかのように、翠川は過去の名選手の活かされなかった腕をしきりに惜しむ。
「野球は球速だけじゃないもの。お兄ちゃんバッティングとか他の守備は普通だったから・・・プロじゃなくてもほら、今、中国の運送会社に勤めてるって言ってたでしょ?そこの社会人野球チームででもやってるのよ。・・・ねえ、お兄ちゃんの手、見た?」
「手?」
 有望は自分の右手を軽く上げ、手のひらを広げてみせた。
「ほら、指にマメがあったでしょ?あれってボールを投げてると出来るの。お兄ちゃん、今でも投げ込みやってるのよ。それに走り方も昔と全然変わってないし、きっとまだ野球を続けてるんだわ」
 マメは、マメの上にまた幾つもマメを重ねたらしく、20年分の厚みと固さを増していたようだった。
 そのマメの成長に、有望の中の兄の時間は止まっていた20年をいちどきに取り戻すように、再び溢れるほど流れ始めていた。



 ポン、と闇の中に白球が上がった。
 落ちてきたそれは、ストンとマメだらけの手の中に収まる。
 夜中でも活動をやめない港湾の片隅で、男はその多くの作業の一角を横で見ていた。たまに作業員が皺だらけの書類を見せながら確認にやってくる。二、三のやり取りのあと作業員が去っていくと、男はまた作業を眺めながら球を軽く投げ上げる所作を再開した。
 と、ざわついた港湾に一際大きな声が上がった。男は振り返る。
「是在這裡的馬?尋找了!(ここにいたのかよ、探したじゃねえか!)」
 後ろから大柄で体格のいい男が小走りに駆け寄ってくる。多少、注意してみていないと分からない程度だが、左足の動きがぎこちないのはどこか悪いのだろうか。
「呀、志飛。イ尓也去著那裡、我一直在這裡(なんだ、志飛ジフェイ。お前こそどこ行ってたんだよ、俺はずっとここにいたよ)」
「從客戸是電話。我不明白日語,イ尓呀(取引先から電話だ。俺じゃ日本語分からねえから、お前出てくれ)」
「我必須看著這裡。請那兒的東西翻譯(俺ここ見てないとダメなんだよ。ちょっとその辺の奴に通訳してもらやいいだろ)」
「好、イ尓做。(いいから早くしろよ)」
 男は渋々ボールをジャンパーのポケットにねじこみ、大柄な男に背中を叩かれ、まるろぶようにその場を離れていった。その勢いで港湾の片隅のプレハブ造りの事務所に入り、事務員がとっていた受話器を受けとる。
「畏?我是扈運送公司的楊星亮。(もしもし代わりました、扈運送本社の楊星亮ヤン・シンリャンです)」


===***===(つづく)===***===
2003/12/23