第21話 子猫のアンジェラス
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理絵のマンションのエントランスに入ろうとした時、中から一人の女性が大きな犬を連れて出てきた。理絵と黒羽は道をゆずったが、犬の方はうさんくさげにゲージの方に首を延べてくる。それは見事なドイツ・シェパードで、やや黒みの強い毛並みに褐色の首輪がよく似合っていた。
「ジェイミー、ダメよ。子猫ちゃんおどかしちゃダメ」
女性はめざとくゲージの中をチェックしたようだ。大型犬は聞き分けよくゲージを諦め、トコトコと歩き出した。
「どうもごめんなさいね」
黒羽と理絵に明るく会釈した女性は犬の後を追った。

「なかなかいい犬だ。しかしマンションでシェパードなんか飼ってる人もいるんですね」
エレベーターホールに向かいながら黒羽が感心したように言った。
「何匹かの犬とよく会いますが、わたしはあの犬が一番好きです」
「ほお」
「よく訓練されていて飼い主と意志疎通がよく出来ている感じだし、何より美しいと思います」

黒羽が面白そうに理絵の顔を見た。
「理絵さん、実はけっこう動物好きだったんですね」
「え……? わたしが、ですか?」
「ええ」
理絵が少し目をぱちぱちした。
「……それは、よくわかりません……。故郷では動物を飼う習慣が無かったものですから。森の小路のみなさんが動物好きというのは判りますが、わたしの場合は少々違うように思えます」
エレベーターが開いた。中には誰もいなかった。パネルの前に立った理絵は最上階ボタンを押しながら続けた。
「わたしはなぜ人々が動物を可愛いがるのか、わからないので」
「そんな理由は無い……というか、ある意味本能に近いものだと思いますよ」
「人とは、そういうものでしょうか?」

黒羽がとんと扉に手をついた。脇を見やった理絵は、思ったより近くで思ったより高い位置にある男の顔を見るため、目線をあげねばならなかった。それは心地よい高さだった。男は半分面白そうに、だが優しい笑みを浮かべて理絵を見ていた。

「ねえ、理絵さん。そうやって何でも真剣に理詰めで考えるってのは、悪くはないとは思いますがね。たまにはもうちょっとご自分を素直に見てあげてもいいんじゃないですか?」
きょとんとした理絵をまっすぐに見つめて黒羽は言った。
「理絵さんは十分に動物好きの優しい女性に見えますよ」

「優しい」とは所詮「弱い」ことであり、それは侮辱に等しいと思う。だが今日はなぜか怒る気になれない。男が自分を他意無く「褒めている」のは明らかで、それは男と自分の身長差と同様にどこか甘美だった。



「これで全部です。ではまた……」
理絵の部屋の玄関に大荷物をおろした黒羽が挨拶しかけた時、理絵は思い切って口を開いた。
「あの……よろしかったら、どうぞ」
そのあとなんと言ったらよいか迷い、部屋の中の方を示してみた。黒羽健は、目を丸くして理絵を見つめた。
「……は?」
「あの……ああそうです。昨日とても気に入っているブレンドを手に入れたのです。よろしければ召し上がりませんか?」

「そりゃあ大変魅力的ですが、一人暮らしの女性の部屋に上がり込むのも、どうかと……」
「それはまた、何故?」
純粋に疑問しか映していない理絵の大きな黒紫の瞳に、黒羽は苦笑するしかなかった。
「わかりました。それではお言葉に甘えます」

理絵は黒羽を自分の部屋に通した。淡いグレーの絨毯にアイボリーの壁紙。白いカーテン。家具といえば掃き出し窓のそばに置かれた小さな白いテーブルと椅子が二つ。それだけだ。冬の午後の陽光が室内を白く満たしていて、心理学の実験室のような浮世離れした雰囲気を醸し出している。
部屋に足を踏み入れた男は少し動きを止めた。光の射し込む大きな窓を眺めて少し目を細める。その横顔はひどく凛々しく見えた。

黒羽健は自信と余裕にあふれた言動のせいか実年齢より上に見える男だった。赤星竜太と親友ということもあり一括りに男気の強いイメージを持たれているが、よく見ると切れ長の目や整った鼻梁の実に端正な顔立ちをしている。森の小路の女性客には露骨に黄龍瑛那に秋波を送っている者もいたが、そんな様子を見るとつい「人を見る目がないわね」と呟きたくなった。

何より黒羽は、理絵にとって非常に大切な人物に酷似していた。理絵の存在を初めて認めてくれた男。理絵が今ここにこうして生きている理由と目的の全て…………。


「日当たりが良くて、いい部屋ですね」
黒羽は理絵の方を見やり、まるで冬の日射しそのもののように柔らかく笑んだ。理絵は自分の鼓動が明らかに早くなっていることを感じながら、応えた。
「……はい。……最近、気に入るようになりました」
「ところで」
黒羽がちょっと小首を傾げた。
「ほら、腕白坊主が外に出たくて仕方がないようですよ」
理絵が手に提げたままのゲージの中で、トラジャが扉にアタックを繰り返していた。

「ああ、ごめんね」
理絵は思わず微笑むとゲージから小さな黒猫を外に出した。黒羽も持っていたゲージを床に置き、扉を開ける。モカ・マタリとマンデリンがおっかなびっくりで外に出てきた。トラジャは探索の手を既に部屋の隅にまで広げている。モカ・マタリも窓の方にひょこひょこと歩き始めた。

黒羽が抜き足差し足でドアに近づき、子猫が廊下に出られないようにドアを閉め、理絵の方に振り返った処で破顔した。理絵のくるぶしのあたりにはマンデリンがしがみつき、スパッツの生地を登ろうとしている。
「やれやれ。お嬢ちゃんは完璧なお母さん子らしい。名付け親としては寂しい限りですなぁ」
理絵は一瞬、嬉しいような誇らしい気分になった。普段ならそんな愚かしいことは考えもしなかったろう。だがその時は、その小さな命に自分が慕われている事実がひどく重要に思えたのだった。



マンデリンの黒毛はまるでたんぽぽの綿毛のようだ。とてもじゃないが"毛並み"という感じではない。そのうえ毛の長さが不揃いなのでなんだか情けない。でも理絵の掌に頭を押しつけるようにして眠りこけているその小さな身体から、無限の安らぎがわき出しているようだった。

理絵はカーペットに座り込んでいる。眠ってしまったマンデリンをクッションの上に移そうとしたのだが、手を離そうとすると眠そうな目をあけてみーみーと声を上げるので、仕方なくそのまま抱いている。そのうちモカ・マタリまで膝に上ってきて寝る始末。
姉猫のほうは幼いのにずいぶんと整った毛並みで、光の加減で艶を放つ。それがこの子猫を妙におしゃまに見せていた。トラジャはタオルの上でほ乳瓶の顔をくっつけるようにして眠っている。横向きに寝たままぐぐっと伸びをし、上向き加減になった腹部は安心感の証明。そのぱんぱんの腹は「満足」と説明書きでもしたくなる雰囲気だった。

理絵はマンデリンを抱き上げてみた。みい、という声をあげて驚いたように目を開くが、理絵の顔を認めるとすぐにふにゃりと瞳を閉じてまた眠り込んでしまう。ひゅうひゅうというやや大げさな呼吸音にごろごろという音が混じった振動が手の中に響いている。子猫が母親に「自分は大丈夫で快適だ」と知らせるサインだと教わった。
理絵は、瞳を閉じた黒い顔を見つめた。何度も見ているが決して飽きることなどなさそうだった。ちょこんと耳の突き出た小さな綿飴のような顔に頬を近づける。心なしかごろごろが大きくなったようだ。目を閉じてしばらくその音を聞き、また少し離れてその顔を見つめる。それは無上のものと思えた。


ふと衣擦れの音に気づいた。招き込んだ客のことをすっかり忘れていた。己のあまりのていたらくに呆れながら顔を上げると、黒羽健の瞳とぶつかった。男がずっと自分を見つめていたように思えて、少し不安になった。他人に自分を観察されるような隙は見せない。そういう風に生きてきたのだ。だから知古のいない町でたった一人で暮らせるこの部屋は、理絵にとってはむしろ心休まる場所だった。「子猫」という思ってもみなかった存在が加わって、油断しすぎたのだろうか?

「いや申し訳ない、つい……。」
黒羽が視線を落として頭に手をやった。その顔には明らかに含羞がある。ずっと理絵を見ていた、と白状したようなものだが、この男のこんな様子などそうそう想像できるものではない。黒羽は窓に目をそらしかけたが、観念したように視線を戻した。
「女性ってのは本当に不思議です。そうやって保護すべきものを前にすると、芯から優しい母親の顔になる……。今まで貴女のそんな面を考えたこともなかったので……」
「母親……ですか?」
「ええ。……気を悪くされたなら、謝ります」

理絵に向かって男はぺこりと頭を下げた。いつもきちんと整えられている黒い短髪が、冬の光の中でふわりと柔らかそうに見えた。子どもの頃に見たかの人の柔らかな長髪を思い出した。だが今、目の前ではにかんだ笑みを浮かべた男には、幼いあどけなさすらあって、理絵は自分の中に寛容さが芽生えるのを感じた。それは新鮮な感覚だった。


「黒羽さんにとっての母親は……よいものなのですね……」
「そうですね。記憶はわずかなので美化してるだけかもしれませんが」
「亡くなったのですか?」
黒羽は口を少し開きかけたが、ふと理絵の後方を見つめた。壁に何かついているのかと振り向きかけたところに「そんなものです」という黒羽の声が聞こえてきた。

「小さい頃に二親とはぐれましてね。それきりなんですよ」
「なぜ……」
親は探してくれなかったのかと、言いかけた言葉を飲み込んだ。だが当の男は屈託のない様子で微笑んでいる。
「まあ、いろいろあったんでしょう。こっちもおかげさまで面白い人間に囲まれて生きてますから」

なぜ、この男はこんな優しい顔をしていられるのだろう。わたしには無理だ。わたしには……。

「…………わたしの親は……たぶん、わたしを捨てました。そう、思っています」
「え……?」
「10歳の時です。ある施設にわたしを引き渡して、それきり会いに来ませんでした。連絡もとれず、半年後に家に戻った時はもう引っ越していて、行き場所もわからなかった。わたしと目線も合わせずに出ていった両親の後ろ姿をよく覚えています。わたしは彼らの望む子ではなかったかもしれないけれど、そう生まれたかったわけではありません。わたしは…………」

一気にそこまで喋ったところで、理絵は黙りこくった。自分の口はいったい何を吐き出しているのか。こんな事を誰かに言った事はない。言う価値も無ければ、意味もない。だいたい親のことはとうの昔に考え尽くして、もう忘れてしまったはずだった。今日の自分は本当におかしい。

男がそっと立ち上がった。座り込んでいる理絵の脇に片膝をつく。優雅で恭しささえ感じさせる動作だった。間近にある男の瞳に自分の姿が映り込んでいた。その黒い瞳がまるで己の姿を守ってくれているかのようだった。

「そいつはまた、ずいぶんとシンドイ話ですな」
男の声は静かでこちらの胸に染みこむようだった。
「……済みません。貴方に話すようなことではありませんでした」
「いいえ。そういうことは近しい人間にはかえって話せないもんです。でも誰かに話したほうがいいことでもある」
理絵は少し面食らってぱちぱちと瞬きをした。
「話したからといって答えが得られるようなことではないと思いますが」
「答えは関係ありません。自分から話す。その事が大事なんだそうですよ」
「話すことが……?」
「受け売りですが、少なくともオレ自身には効果があったようですよ」

「貴方も誰かに話して……だからそうやっていられるのですか?」
「そんなところです。まあでも親子の出会いだって運命ですからね。たとい縁が薄かろうが、恨んだりしちゃいけませんや。自分の生き方してりゃあ、おのずと仲間が出来ていく。それで十分なんじゃないですか?」
黒羽がまた少し恥ずかしげに笑んで、頭をかいた。
「そう言って、オレは自分に言い聞かせてるだけかもしれませんがね」

理絵はその動作につられるように微笑んだ。黒羽もそれに微笑み返し、マンデリンを包むようにしている理絵の手にそっと触れると身を起こした。
「ではそろそろ失礼します。どうもごちそうさまでした」
「はい。どういたしまして」
理絵は立ち上がろうとしたが、その膝は子猫に占領されている。黒羽がモカ・マタリをすくい上げ、寝ているトラジャの脇にそっと置いた。モカ・マタリはぴくっと顔を上げたが、すぐにトラジャの毛の中に鼻先を潜り込ませて眠りこけてしまう。理絵と黒羽は顔を見合わせ、声を潜めてくすくす笑った。

理絵はマンデリンを抱いたまま玄関で黒羽を見送った。男がそっと閉めたドアをしばらく見つめていた。胸のあたりがほのかに温かかった。抱いている子猫のせいかとも思ったが、ずっとずっと昔、同じような温かさを知っていたような気もした。


2007/12/4

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