第21話 子猫のアンジェラス
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気まぐれな夜風が吹き寄せ少女のまとっていたフードをはねのけた。少女はさして気にする風でも無く、陶器のように滑らかで白い頬を冷たい夜気にさらしている。
3月になったとはいえ夜はまだまだ寒い。だが少女はその冷気と夜風を楽しむように、マンションの屋上の縁に腰掛けて足をぶらぶらとさせている。宙に浮く華奢な足から地表までの40mの空間など無いかのように。

瞳には夜空にかかる18齢の月が映り込んでいた。形取りに失敗したビスケットのようないびつさが少女にとっては面白い。故郷では毎夜形を変える衛星の姿を見ることなど無かったからだ。
静かな夜空から視線を落とすと、一転してきらびやかなネオン風景。騒がしく下品に変わっていく瞬きは、今この地に多くの人間が蠢いていることの証のようだ。不快さに少女は眉根を寄せ、瞳を閉じた。


全てはあのお方のために。
あのお方のためにこの3次元を手に入れる。

あの命どもをどれだけ奪うことになろうとも、そのためだけに自分――夢織将軍アラクネー――はこの地にいる。


アラクネーは目を見開いた。あまりカールさせていない長い睫が、かすかに紫がかった瞳をより印象的に見せる。少女は懐から手毬ぐらいの透明の球体を取り出した。中に紡錘形にきつくねじれた黒い糸巻きのようなものが数十本。
「スプリガンったら。こんなもの本当に役に立つのかしら」

両手で包むようにすると球は煙のように消える。白い手のひらの上に浮かんだ糸巻き1本1本がしゅるしゅるとほどけ、頭でっかちの待ち針にコウモリの羽根をつけたような奇妙な生き物がパタパタと宙を舞い始めた。せわしなく羽根を動かしながら彼らは3倍ほどに大きくなる。

「こういう妙なものだけはうまく作るわね、あのロボット」
今やエイとコウモリの合いの子のような姿に成長した小さな生き物たちは、纏わり付くようにアラクネーの回りを飛び回っている。

「ああもう。早くお行き」
アラクネーがうるさそうに手を振ると、彼らはぱらぱらと夜の下界へはためき降りていった。

===***===

天気の良い日曜日。
不現理絵はアルバイト先に向かう途中で妙な音を聞いた。みぃ、みぃというかん高い音。その不規則性から生体の出すものと思えた。前方の生け垣のあたりから聞こえてくる。見やると何やら黒いものがうごめいていた。

興味を持ったので近寄ると、浅い段ボールの中にぼわぼわとした黒い毛の固まりが3つ。一番大きな毛玉は活発に動き回り箱の縁に登ろうとしているが、運動能力と力不足でできない様子だ。もう一つは動き回る大きい毛玉を鳴きながら必死で追いかけている。先程の奇妙な声を出して居たのはこれとわかった。最後の毛玉は動かないせいか最初の毛玉と比べると一回りも小さく見えた。実はこれもみぃみぃと鳴いていたのだが、その声はひどく小さかった。

理絵はじっとしている毛玉に手をのばした。触れた瞬間、それはびくんと頭をあげ、もぞもぞと動き出す。理絵の手に顔を押し付けようとしているらしい。そうこうしている活発な大きな毛玉がこちらに気づく。必然的に中くらいの毛玉も寄ってきてしまった。

さて、と理絵は思った。その手には3つの毛玉がまとわりついたままだ。

これをどうしたらいいのかしら?

しばらく考えてみたが、結論が出ない。こういった手合いは考えても時間の無駄かもしれない。誰かに聞いてみた方がいいだろう。

幸いにして理絵は適当な質問相手を知っていた。実物があったほうが説明が簡単そうだ。理絵は段ボールごとその3つの毛玉を持ち上げた。

===***===

「遅くなりました」
からんからん、といういったドアベルとともに、理絵が喫茶店の「森の小路」に入ったのは開店10分前。いつもより5分遅れだった。
「おはようございますっ」
元気な声がほとんどハモる。いつもいる元気な店員の翠川輝と、女子高校生のアルバイトである桜木瑠衣だ。
「って、その箱、もしかして……っ?」
二人がだっと近寄って来たので理絵は毛玉の入った箱を床に置いた。2匹が声高に鳴き始めた。
道端にあったのですが……と説明を始めるより早く、瑠衣が一番大きな毛玉を抱き上げた。
「子猫だー! 可愛いーっ」

「捨て猫かい? ったく、アッタマくんな」
今日は非番のはずだが、なぜかしょっちゅう遊びに来ているもう一人のバイト店員、黄龍瑛那が髪を掻き上げながら近づいてきた。
「持って来てはいけなかったでしょうか?」
このちょっと神経質な長身の怒りが自分に向けられたのかと思った理絵がそう口にすると、黄龍は慌てて手を振った。
「違うって。理絵さんを怒ってんじゃないって。自分の飼い猫のガキだってのに、それをこうやってあっさり捨てるの、俺様としてはかーなり嫌いなワケ」
黄龍の口元にはいつものにやけた表情が戻っていたが、眼差しは真摯に怒りを帯びていて理絵は少し驚いた。それまで、頭は良さそうだがふざけた物言いしかしない軽い男と認識していたからだった。

「……捨てられた……。この生き物たちはそうなのですか?」
「まあ、無責任な人間もけっこういますからねぇ」
黄龍の肩をなだめるようにポンポンと叩いて割り込んで来た男の声に、理絵はどきりとする。常連客の黒羽健は開店前も閉店後も店に入り込んでいる。理絵がよく知っている人物に似ているため会った時から気になる存在だったのだが、こういう穏やかな話し方をすると本当に……。

「だけど、こうやって拾う神様もいるってワケだ」
黒羽健は箱の脇にしゃがみ込んで手を伸ばした。普段の立ち居振る舞いからはあまり想像のできない、どこかあどけなさすら感じさせる仕草だった。さっきまで翠川輝に抱かれていた子猫を白い手袋の上に載せて、切れ長の目を細める。黒い毛玉に嫉妬したくなるほどにその眼差しは優しく暖かくて、理絵はその一挙手一投足から目が離せなかった。

「みんな、ケガとかはしてないみたいだけど……。でもこの子はかなり弱ってるみたい」
黒羽とは逆に普段の子供っぽさが嘘のように大人びた表情で子猫たちを次々に調べていた翠川輝が、一番小さな毛玉を抱いたまま顔をあげた。

「みたいだな」
いきなり降ってきた声に理絵はまたちょっと驚く。黒羽健の横顔に見入りすぎていたらしい。翠川輝の視線の先、みんなの上から子猫たちをのぞき込んでいた男は店長の赤星竜太。一応理絵の雇い主になる。喫茶店なぞやっているとは思えない体格の良さだった。
「あ、店長。済みません。来る途中でこれが道に置いてあって……」
「こんな時期の子ってことは親は完全な室内飼いだな。ったくひでぇことするぜ」

で、これをどうしたら……と問おうとしたらもう赤星は大股でレジに向かっている。がちゃんとレジを開けると何枚かの札を引っ張り出した。
「輝、サン・ホームならたぶんあると思うんだけど。頼んでいいか?」
赤星の口から近所のホームセンターの名前が出て、皆がきょとんとする。輝だけがその意を理解した。
「もちろん! 子猫のミルクと哺乳瓶だねっ」
「ああ。あと離乳食とか砂とかさ」
「おっけーっ 行ってき……」

「お待ち下さい店長。わたしはどうすればいいかをお聞きしたかっただけなのですが……」
翠川輝をちょっと押しとどめるようにした理絵の問いに赤星はにこっと笑った。
「理絵さんが飼うにしろお客さんに聞いてみるにしろ、とにかくまず食わせなきゃ。ハラ減ってるからそうやって鳴き続けてるんだ」
「そうだよ、理絵さん。この子達カラダ小さいから1日絶食したらそれだけで死んじゃうの」

「んじゃ早いとこ牛乳やったら?」
「だめだよ、エイナ! 子猫に牛乳なんて、おなかこわしちゃう! とにかく行ってきまーすっ」
「あたし、奥のダイニングに場所作ってくる。もうちょっと大きい段ボールの方がいいよね」
「そうだな。あ、この間の野菜買った時の発砲スチロールの箱! あれ入れたらあったかいぞ」
「赤星サン、開店は1時間遅れでいいかよ?」
黄龍がドアにかける案内用の小さな黒板を手に取りながら言う。
「30分でいいだろ。どうせそんなに客来ないし」
「そうね……っつーか、店長がそんなこと言ってていいのかってーの」

理絵の思惑なぞどこ吹く風で勝手に話が進んでいく。おかしい。今日、自分がこの生物をつれてくることなど誰にも予測出来なかったはずだ。こちらの目を盗んで相談したと考えるのも不自然。なのにいつのまに共通認識が出来てるのだろう……

理絵の戸惑いを不安と取ったらしい。黒羽が理絵の手に軽く触れた。
「大丈夫ですよ、理絵さん。動物はオレ達が思ってるよりずっと強いもんですよ」
「は……い……」
黒羽は輝が心配していた一番小さな子猫を両手で包むように持ち直し、まるで自分の生命でも注ぎ込むかのように囁きかけた。
「そうだよなぁ、おチビちゃん。お前さんもしっかり生きるんだ」

たんぽぽの綿毛の如くふわふわと逆立った黒毛の生き物は、うぞうぞと黒羽の指を抱え込み、潤んだ黒い目をしばたかせながら、みぃ、と鳴いた。


===***===

細く延びたシリコンの吸い口をあてがうと、子猫はそれをしっかりくわえこむ。吸い口を巻くようにピンクの舌が縦に丸まっているのが可笑しい。そのうち噛むような動作を繰り返し始める。
「これで飲んでるんですか?」
右手でひざの上の子猫を支え、左手で哺乳瓶を持った理絵は、心配そうな小声で輝に尋ねた。

日頃他人は混乱させても自分の戸惑いなぞ見せたこともない理絵だが、この3匹の子猫に関しては振り回されっぱなしだった。結局のところ輝と一緒に医者にも行かされるハメになり、拾った子猫が一応健康なこと、大きい方から、雄、雌、雌であることがわかった。猫は先に生まれた子ほど大きいのが普通で、長男に妹二匹と考えていいそうだ。

森の小路の従業員は店長を含め今日1日どこかうわの空。代わる代わるに猫の様子を見に行き、なにくれと世話を焼いたあげく、夕方も早めに店じまいして子猫達の回りに集まっていた。

「大丈夫だよっ。あ、瓶をあんまり傾けすぎないで。そう、そのくらい」
輝は目をきらきらさせながら理絵と子猫を見守っている。今理絵が抱いている末っ子は他の2匹に比べて授乳にコツが必要だった。ミルクのちょっとした温度や吸い口にかかる圧力など、些細なことで飲まなくなる。だが赤星や輝は3日もすれば普通に飲めるようになると鷹揚だ。同時に生まれても、最初の子と最後の子では一ヶ月近い成熟の差があると説明してくれた。

そのうち哺乳瓶の中が空になった。満足そうな顔をしているが口の周りはミルクだらけ。真っ黒なので余計目立つ。本人はきれいにしようとペロペロやっているのだが、舌はただ出たり引っ込んだりしているだけで何の役にも立っていない。
「まだまだカッコだけだねー」
輝が笑いながら使い古しのおしぼりで子猫の顔全体をぐるぐる拭いた。すっかりきれいにしてもらったのに、ふう、とため息をつくその所作がまた妙に小生意気で、理絵は思わず小さな声をあげて笑ってしまった。

「あ、理絵さんが笑った! かっわいーっ!」
普段なら睨み返していたかもしれない。だが輝の表情はあまりに屈託がなくて、逆に顔を赤らめてうつむいてしまったのは理絵の方だった。
「まったくだ。正直なことはいいことだな。坊や」
黒羽が輝の頭をぽんぽんと叩き、また子供扱いしてっと輝が膨れる。それを見た理絵がまたくすくす笑う。どちらかというと無表情だった美貌に隠れていた無邪気な笑みは、たしかに見る者の目を奪った。

「あー! 妹に何すんの!」
瑠衣が声を上げた。見やると瑠衣がミルクをやっている長女猫のほっぺたに、一番上がむぎゅーっと噛みついていた。
「おまえ、あれだけ飲んでまだ足りないか。食い意地はってんなぁ」
爆笑した赤星が兄猫の口の脇にちょっと指をかけて二匹を引き離す。長男猫は赤星の指を前足で抱え込んで食らいつき、後ろ足で蹴りつけはじめた。
「あーあ、赤星さん、怒らせちゃった」
「遊び遊び。こーやって大きくなるんだから」

赤星の手は子猫とほとんど同じ大きさだ。勢力の有り余ってるやんちゃ坊主は手頃な格闘相手を見つけて大はしゃぎだった。
「手ぇ傷だらけになるぜ、それやると」
苦笑しながら黄龍が言う。
「そうそう、爪が細いからあとでぴりぴりすんのな」
そう応じながらも赤星には手を引っ込める気配すらない。

理絵は子猫たちをじっと見ている。自分の膝から転がり降り、おぼつかない足取りで兄猫の方に向かう末っ子。瑠衣の膝の上で顔を洗おうとしてバランスを崩すおしゃまな姉。後ろから妹に尻尾をかじられて文字どおり飛び上がる兄猫……。

「……あの……この子猫達、やはりわたしが連れて帰りたいと思います」
「え、理絵さん、3匹ともみんなですか?」
瑠衣がびっくりしたように言う。
「はい。なんというか、見ていると引き離すのもどうかと……」
「やったー! それが一番いいよっ 良かったねーお前達!」
輝は3匹まとめて抱え上げると歓声をあげる。状況の判らない子猫たちは目をぱちくりしていた。

「そうは言ってもさ、理絵さん。3匹全部育てるのも大変じゃねーの? 気に入ったのだけもらって、あとは店にポスター貼ったら飼い主見つかると思うケド?」
黄龍の言葉に瑠衣も頷く。だが赤星は哺乳瓶やタオルを集めながら言った。

「でも、意外と1匹よりラクだったりするみたいだぜ。2年ぐらい前にこの近所で2匹拾った人がいてさ。自分たちだけで遊んだり寝たりするから助かるって言ってたんだ」
「オレんとこはミグ1匹だったから……。でも子猫って一人ぼっちだとダメなんだよね、心細いみたいで、抱いてやらないと寝ないこともあるし」

「この子達さっきもみんなで固まってぐっすり寝てたもんね。ああなってると安心するのね」
「俺も子供ん頃拾った時は1匹でさ、あんまり鳴くから兄貴のエプロン借りて、前ポケットに入れて歩いてたんだぜ!」
「やだ、赤星さん、まるでカンガルー!」
瑠衣が思いっきり笑う。どうせまた突拍子もない想像をしているに違いない。

「ほ乳類の子供ってのは暖かくて柔らかいものに顔をつっこむと安心するようにできてるのさ。心臓の鼓動で安心するのは人間の赤ん坊も同じさね」
黒羽が輝の頭によじ登っていた長男坊主を抱き下ろすと、肩のあたりに張り付いていた末っ子を抱き取りながらそう言う。
「となるとこれでやっと名前がつけられるな。この嬢ちゃんはマンデリン。どうだ?」

「なにそこ一人で勝手に名前つけてんだっての。そうだ。理絵さんってマンションって言ってなかったっけ? ペット大丈夫? うるさいトコはけっこううるさいぜ」
黄龍は流石に現実的である。理絵は少し目をぱちぱちした。そんなことに許可が必要とは思っても見なかった。
「……同じマンションで動物を飼っている人は多いので大丈夫だと思いますが……。もう一度確認してみます」

「じゃあ判ってから連れに来てよ。ゲージも用意した方がいいだろうし」
「判りました。ありがとうございます、店長。それで、名前ですが……」
「絶対マンデリン」
小さな黒猫を抱え上げてそうアピールする黒羽の頭に赤星がごつっと拳固を食らわし、皆が爆笑する。理絵もつい吹き出してしまった。笑いを含んだまま黒羽に微笑みかける。
「はい、そうします。とてもいい名前だと思います」

黒羽が得意げな顔で赤星を見やると黒猫にキスをする。そのあとが大騒ぎだった。
「じゃあこっちはブルマンのブルーか?」
「黒猫にブルーってヘンすぎっしょ!?」
「コロンビアからコロンちゃん!」
「おしゃまだからもう少し大人っぽい名前の方がよくないかなっ」
等々々々……

結局一番上の子はトラジャ、二番目はモカ・マタリとなった。

2007/5/6

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