第21話 子猫のアンジェラス
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「あ、理絵さん、おはようございますっ」
「おはようございます」
いつも通りに「森の小路」のドアをあけると、元気のよい声が響き渡った。翠川輝のこの挨拶。最初の頃はうっとうしく感じられたものだが、今はどこか嬉しいような気持ちになる

「ゲージ、あの子達の? 2つも大変だったでしょ!」
いつも通り理絵の手を取ろうとカウンターから出てきた輝は、理絵が両手に持っていたゲージをすぐに受け取ってくれた。3匹だと1つでは狭いかと思い、2つ用意してきたのだった。
「よかったー! 飼えるって分かったんですねっ」

「はい、問題無いそうです。ところで今日は翠川さんお一人なのですか?」
「あ、マスター、ちょっと用事が出来て、来るのお昼ぐらいになっちゃうって」
「そうですか」
店長の赤星竜太は別の仕事も持っているそうで、店にいないことがよくあった。翠川輝もそっちの手伝いをやっているらしい。頼みのアルバイトである桜木瑠衣や黄龍瑛那もローテーションがアバウトなので、理絵1人になってしまった事も何度かあった。まあそう繁盛している店でもないので、なんとでもなるのだが。


ここ「森の小路」は喫茶店としての地の利はあまり良くはない。だが雰囲気は良いのだから、店長がもう少し真面目に気配りをすれば売上は伸びるのでは……と考えたことはある。だが給与はきちんと払ってくれるし、店長を筆頭に従業員も常連もお人よしばかり。理絵にとっては居心地と都合の良い職場であったので、まあこのままにしておこうと思っていた。

そう。
関係無いことはあまり詮索しない方がいい。
それが、必要でない限りは……。それを、望まれない限りは……。

そんなことをしても………………。


「理絵さん、どうしたの? 気分悪いの?」
両腕を捕まれて理絵ははっとした。だが他人の前で物思いにふけってしまったことを恥ずかしく思ったので、あえて落ち着いてみた。この店にいると不注意が習い性になってしまいそうだ。

見上げるでも見下ろすでもなく、ほとんど真っ正面に翠川輝の顔があった。どこかのパーティで見た貴族の少女のように長い睫に縁取られた大きな瞳。だが肘のあたりにあるがっしりした掌の感触が、その華奢な体躯とはアンバランスな安心感を伝えてくる。なにより色白で整ったその顔には、高貴さという名のよそよそしさなどカケラもなかった。ただひたすらにこちらを気遣っているピュアな感情……。

おかしい。こんなふうに心配される恩は売っていないはず。仕事の対価は給料として受け取っているのだし。ああ、わたしに休まれると困るからね。まったくいい加減な人材配置をしているから………
「理恵さん、具合悪いなら、休んだ方がいいんじゃない? こっちは大丈夫だから」
違ったらしい。

「ほんとに無理しないほうがいいよ」
素直な瞳でそう畳み掛けられて、理絵は自嘲気味の淡い笑みを浮かべた。自分がこんな子供然とした少年に本気に気遣われているのが、妙に滑稽に思えたからだ。

「なんでもありません。仕事をしましょう。何をやればいいですか?」
輝は目を長い睫をぱちぱちとしたが、すぐにいい事を思いついたという様ににぃーっと笑った。
「じゃあ、まずトラジャたちの面倒を見てきて下さいっ」
廊下に通じるドアを目顔で示し、先ほど受け取ったゲージを持ちあげる。猫の世話は仕事ではないのでは、と思ったが、こうなっては仕方ない。促されるままに廊下の一角の大きなダンボール箱のところに行った。

毛玉……もとい、トラジャ、モカ・マタリ、マンデリンの3匹は無防備きわまりない格好で寝ていた。トラジャは完全に仰向け。マンデリンがその腹に顔を埋めてそのまま寝ている。モカ・マタリは横向きで、手足を投げ出したまままるで正体がない。
「朝のミルクは7時ぐらいにあげたから、まだ大丈夫だと思うけど」
輝はゲージを隅に積みながらそう言うと、じゃあねっと大げさに手を振って店の方に行ってしまった。


理絵は段ボールをの覗き込んだ。呼応するようにトラジャが目を開く。ちょっと潤んだ目を一度だけ瞬かせた。黒い瞳に理絵の姿を認めるとやおら立ち上がる。妹が転がるのなぞお構いなしだ。身体の割に太い前足を床にぐっとつっぱると、ひょこひょこと理絵の方に歩み出す。にゃーと鳴いて、いきなり段ボール箱の縁めがけてジャンプした。
何度か失敗したところで前足が上の縁に届く。むちゃくちゃに後ろ足を動かして這いあがった……と思ったらそのまま落下し、理絵は反射的にそれを受け止めた。そのまま黒い塊を顔の前まで持ち上げる。

「考え無しね、お前は」
トラジャは真ん丸い目で理絵を見つめている。輝きのあるその瞳には喜びと好奇心が映っている。理絵が人差し指で額をくるくると撫でると、今度は満足げに目を細めて頭を押し付けてきた。手の中に不思議な振動が伝わってくる。猫が満足する時に立てる音。本来は子猫が母猫に大して自分の安全を伝えるものだと昨日聞いた。

そのうち、情けない、みーみーいう声に混じって、どだん、ずるる、という無様な音がした。見ると壁に飛びついては失敗しているモカ・マタリと、ひたすらに上を見上げて鳴いているマンデリン。理絵は思わず笑ってその2匹を取り上げた。
モカ・マタリはすぐにトラジャを追いかけ始めるが、ちょっと遠くに行きかけるとすぐ戻ってくる。座った理絵の周りにまとわりつきながら、理絵の身体を障害物に見立ててかくれんぼだ。マンデリンは理絵の膝に取り付き、シャツの裾に吸い付いてまた寝てしまった。

三つの毛玉を取り巻くのは、なんの不安も恐怖も義務もない満ち足りた幸福。今はただ、彼らをその中に置いておきたい。無性にそう思う。甘えと信頼の塊。警戒感の一切無い圧倒的な依存が、全て自分に向けられているのだから……。

理絵は自分の内に沸き出す感情に戸惑っていた。
そのもやもやする霧の中に確かな感覚があることにも……。


===***===

「理絵さん、そろそろ何か好きなの煎れて。輝、もうすぐだと思うよ」
客の話に聞き耳を立てていた理絵は、赤星の声に鳩時計を見上げた。もうそろそろ1時半。トラジャ達を連れて帰るので、今日はここで上がっていいと言われていた。怪談嫌いが玉にキズだが気のいい店長は昼食を用意してくれるのが常で、今日は輝が作ってくれているらしい。

理絵は礼を言ってカウンターに入ると、昨日と同じく「シエラ・モレーナ 」の缶を取った。自分の昼食のために煎れるのだが勉強のためもある。この豆についてはもう少しいろいろ試したかった。
「理絵さん、それ、オレの分もお願いできませんか?」
カウンターの端っこの定位置にいた黒羽が新聞を置いて言い出した。
「はい」
応えた理絵は二人分の豆をミルに入れた。

昼の客はほとんどが引き上げており、店内には大学生らしい4人組が残っていた。男女4人はさっきからかなり声高に話し続けており、理絵はその内容が気になっていた。もちろんコーヒーに影響が出るほど夢中になっているわけではない。特に黒羽のためのコーヒーだけはきちんと煎れたかった。

「お待たせっ」
挽いた粉をドリップし終わったところで輝が大きなトレイを持って入ってきた。2人分のパスタとスープとサラダが乗っている。
「オレも一緒していいですかっ?」
「もちろんです」
「マスターっ キャラメル・モカひとつ!」
「メシ食うときにそんな甘ったるいの、やめろよ〜」


輝は理絵がよく座る窓側の一番奥の席にランチを並べてくれた。理絵は黒羽の前に丁寧にカップを置くと、自分のカップを持って輝の向かいに座る。すぐに赤星がクリームどっさりのモカを持ってきた。
「ごゆっくり」
輝の前にグラスを置いた赤星は笑顔ではあったが、内心は4人組の大声に少し辟易としているようだった。カウンターに戻る赤星の頭に降り注ぐように、4人のおしゃべりは続いている。

「……でもさぁ、やっぱ甘くない? 狼かばって怪人逃がしちゃうなんて」
「狼って絶滅危惧種かなんかだろ? 動物園とか環境庁から頼まれてたんじゃないか?」
「平和ぼけだぜ。人間が盾になってるならわかるけど、たかが狼なんだから、かまわずぶっ飛ばすべきだろ」
「いやねー、その人間中心的な考え方! はっきり言って狼より先に死んだ方がいい人間、一杯いるわよ!」

そう。この日の早朝、スパイダルの怪人が現れた。怪人は都内の動物園から連れ出した5頭の狼を従え、日本の中枢機関に突入しようとした。報道によれば、警官隊とオズリーブスはその侵攻を阻止したが、操られた狼が「人質」になっていたために、オズリーブスは怪人を撃破するチャンスを逃してしまったという。

理絵はオズリーブスには関心があった。彼らが何かやるたびマスコミではそれなりの報道があったが、その量はそう多くはない。流石に報道管制は引かれているのだろうと思われた。オズリーブスそのものだけでなく、彼らの存在が一般の人間たちにどんな影響を与えているのかも興味深かった。

理絵の通っている大学の学生たちは、大勢は「無責任な迎合」を見せていた。批判めいた論評を加える者ももちろんいたが、現実的な代替案の無い批判はあまり意味が無い。理絵がよく出入りする飲食店や病院や金融機関の待合室でも似たようなモノだった。好意的であれ批判的であれ、口端に上れば上るほど、オズリーブスが大衆のよすがになっているのは確かに思えた。

ただ残念なことに「森の小路」の関係者はオズリーブスに無関心な者が多く、話題が出ることはあまり無かった。それでも時々は物見高い客がいて、それはそれで興味深かった。

「でもオズリーブスってやっぱ自衛隊なんだろうなぁ」
「警察にもSATとか特殊部隊あるだろ」
「でもいつまで5人で大丈夫なのかなぁ」
「いくらなんでもそのうち増えるんじゃない?」

今日は輝も口数が少なかった。赤星が出勤してくるまで珍しく店が結構忙しかったから、ほっとして気が抜けたのだろう。おかげで4人組の話が落ち着いて聞けた。
理絵が食事をちょうど済ませたところで、タイミング良く4人は店を出ていった。彼らの背中を見送った赤星が肩で小さな溜息をついた。まるでうっかり怪談を聞かされてしまったあとのようだ。逆に言えば、赤星は彼らの話を「それなりに聞いていた」ということになるのだろう。

「ごちそうさまでした」
理絵も食器類を片づけ始めたが、輝がさっとシンクの前に陣取る。
「あとオレがやるよっ トラジャ達、連れて帰ったら帰ったで色々やることあるでしょ?」

「じゃあ、オレがお送りしましょうかね? あのゲージ2つじゃ、運ぶのも大変だ」
「いえ、それは……」
黒羽が立ち上がりかけたので理絵は慌てた。もとより人に何かをしてもらうことに慣れていない。ましてや恩人に似た人間とあっては、どこかくすぐったい気分になってしまう。
だが、4人組が去った後の乱雑なテーブルを片付けながら、赤星が笑って後押しした。
「理絵さん、遠慮しないでコキ使ってやってよ。ここ居たってなんもしねえんだから」
「そいつはずいぶんなお言葉」


赤星は運んできたカップ類をカウンター越しに次々と輝に渡し、ゴミなどを手早く片付ける。理絵はどうしても一つ聞きたくなった。
「……あの、店長、一つお聞きしてもよろしいですか?」
「なに?」
「店長は今朝のオズリーブスの行動をどう思われますか?」
赤星が驚いた顔で理絵を見返した。輝の手も止まったが、黒羽から飲み終えたカップを渡されて、また手を動かし始めた。

「どうって?」
「彼らがあの動物のために敵を倒すチャンスを逃したのはなぜでしょう。そういう命令があったのでしょうか」
「さあ。そんなのわかんねえけど。でも誰だってなんの関係も無い動物を巻き添えにはしたくないだろ?」
「希少な動物だからですか?」
「そうじゃなくて。……えーと……」
「理絵さんがトラジャたちを拾ったのと同じだよっ 助けられる命は助けたいでしょ?」
輝が洗剤の泡を洗い流しながら助け船を出し、赤星はうんうんと頷いた。

「わたしの場合は成り行きで……。それに放置できないような敵はいませんでしたし」
理絵独特の言い方に赤星は少し苦笑した。だいぶ慣れてきたようだった。
「敵がいてもいなくても、それが人間でも動物でも、目の前に自分が救える命があるなら、"成り行きで"なんとかしたいって……そう思う。連中もそう思ったんだよ、きっと」

きれい事と言ってしまえばそれまでだが、彼らは本当にそう思っているのだろう。それもそうか。軍人や警察の人間ではない、ごく普通の民間人なのだから……。

でも……言っていることは……。


「ほらほら、理絵さん、オズリーブスのことなんてどうだっていいじゃないですか。マンデリン達が待ってますよ」
黒羽がテンガロンハットをくるくると回しながら声をかけてきた。理絵はすっと姿勢を正した。
「そうですね、済みません。すぐ準備をしてきます」
「ではヒマなオレもお手伝いするとしましょうか」

赤星が思い出したように叫んだ。
「あ! ミルクとか哺乳瓶とかも持ってってくれ! あと砂も!」
「了解」
「ありがとうございます」

黒羽と一緒に奥に行きながら、理絵は午前中、独りで子猫の世話をしていた時の感覚を思い出した。彼らを幸せなままにしておきたいという、不思議な欲求……。
動物園から抜け出した狼達に対しても、そんなことを考える人間はいたのだろうかと、ふと思った。

2007/9/1

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