第17話 約 束
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「……瑠衣ちゃん?」
 薄暗い店内。ほとんど見分けはつかなかったが、その背中はとても小さく見えた。振り向いたのが気配でわかる。
 彼女は少し、首を傾げたようだった。
「瑛那さん・・・・・・?どうしたんですか、こんなに早く・・・・・・」
「それはこっちの台詞!」

 少し乱暴な手つきで店の明かりを付ける。ぱち、と音がして店内全体に明かりが灯った。
 カウンターに腰掛けている瑠衣はニットにワイドパンツというラフな格好だった。起き出したばかりだというのは雰囲気でわかったが、それにしてはその表情は何となくそぐわない気がした。
 彼女は妙な落ち着きを見せていた。普段の元気で明るい、どこかふわふわとした感覚を与える彼女はどこかへ行ってしまったようだった。背筋を伸ばしてただ、そこに居るだけだ。なのに、まるで彼女が彼女で無いようだった。静かにこちらを見つめている。

 そのことに内心驚きながら、黄龍は壁掛け時計を後ろ手に指し示した。
「まだ朝の4時だぜ!ちゃんと寝ときなって・・・・・・!」
 さしもの彼も、その日ばかりはいつものふざけた声ではなかった。
「今日だろ!?受験!」
「眠れなくって・・・・・・」
 瑠衣は少し微笑んだ。そのちょっとした仕草すら普段の彼女との大きな隔たりを感じて、黄龍は戸惑った。

「瑛那さんはどうしたの?」
「んなことどーでもいいだろ!?」
 意図せず口調がきつくなる。
「部屋戻って、ちょっとでも寝とけって!受験の最中に眠くなったらどーすんの!」
 瑠衣は全く動じなかった。少しだけ眉根を寄せ、静かにかぶりを振る。
「・・・・・・眠れそうにないわ」
「・・・・・・」
 黄龍は思わず、少しの間考えてしまった。
 受験前の緊張とは違う。受験のプレッシャーを感じているなら、もっとそわそわしている筈だ。逆に落ち着いているというのはおかしい。
「本当に、もう寝なくて大丈夫なわけ?」
 瑠衣はふい、とあさっての方向を向いた。表情一つ変えない。
「あたし、朝には強いんです。一時間や二時間、どうって事ないわ」
「・・・・・・」
(今日の瑠衣ちゃん、可愛くねー)
 黄龍は思いきり仏頂面をした。瑠衣はそれきりこちらを見ようともしない。あるいはそれは意識してそうしているようにも見えた。その背中を眺めながら黄龍はしばらくの間考えていたが、やがて身を翻す。
「……瑛那さん……?」
 突然動き出した気配を不思議に思ったのか、彼女は黄龍の名前を呼んだ。しかしその声は届かなかった。黄龍はすでに奥へ入って行っていたからだ。

「瑠衣ちゃん」
「……?」
 カウンターに肘を付きただ下を向いていた瑠衣は、黄龍の声にふと顔を上げた。
「瑛那さん?」
「わりー。ちょっとここ、開けてくんねー?」
「ここ……って」
 声はカウンターの中にある、厨房に通じる扉から聞こえてくる。瑠衣はほんの少し躊躇した。
 本当は今、誰にも会いたくなかった。普段ならそんなことはない。むしろ瑠衣は誰かと一緒にいて、なにがしか喋るのが好きな人間だった。だが今は少し事情が違った。
「……」
 誰にも会いたくなかった。でも、少しだけ……。
 瑠衣はしばらく迷ったその後、席を立った。

「昨日のパウンドケーキがちょっとだけ残ってたの思い出してさ〜……それからあったかい紅茶飲めば、ちょっとは眠れるんじゃねーの?」
 黄龍は笑って言うと、瑠衣の開けた扉をくぐってカウンターに入ってきた。両手でトレイを持っている。
「サンキュ、瑠衣ちゃん。俺様両手ふさがっててさ」
「嘘つき」
 瑠衣は苦笑してそう言った。
「あたしでも片手で持てるくらい軽いでしょ。そのトレイ」
 多分、自分が扉を開けなければそれ以上何も言わずに一人にしておいてくれるつもりだったのだろう。気を遣ってくれた、と言うよりは試されたような気持ちの方が強い。
「瑛那さん、ずるいわ」
「そー?俺様は自覚無いけど」

 黄龍の笑顔を見ているうち、瑠衣は何故か急に、たまらなく寂しくなった。
「もう、いいわ……もう、いい。そんなことはどうでも……」
 瑠衣はトレイを持つ黄龍の袖をぎゅ、と掴んだ。黄龍が目を丸くしたが、瑠衣は下を向いていてそれに気付かなかった。もし気付いたとしても、やはり瑠衣にはどうでもいいことだった。先ほどまでの独りでいたい気分はすべて、誰でもいいから一緒にいて欲しいという気持ちに移り変わっていた。
「ちょっとでいい……一緒に、いてくれる?」
 黄龍は一瞬怪訝な顔をしたが、取り敢えず肯定の旨としてトレイをカウンターに置いてから瑠衣を連れて表側に回り、椅子に腰掛ける。
「……ありがと、瑛那さん」
 囁くと、瑠衣もその左隣に座った。黄龍が目の前に紅茶とケーキを差し出してくれるのを漠然と眺める。
「これ食べたらちゃんと寝ろよ〜?寝不足で身体壊したりしたら何にもなんないぜ。今日のために受験勉強、頑張ってきたんだろ?」
 ……そう。あたしは今日受験する。受験、しなくちゃならない・・…・。
「……」
 瑠衣の中で、一度は押さえ込んだ思いが、再び頭をもたげ始めていた。
 彼女は一口紅茶をすすった。柔らかい香りが鼻孔を通り過ぎていった。その香りに、彼女は決意を固めた。

「……ね……瑛那さん」
「ん〜?」
 呟くように瑠衣は言った。
「今日。あたしも、一緒に行っちゃ駄目?」
「……!?」
 黄龍は驚いて瑠衣を見た。彼女は膝の上に両手で包み込んだ紅茶のカップを置いて、どこか遠くを見ていた。
「怪人が出たらあたしのこと、一緒に連れて行ってほしいの。……前にも言ったけど、受験日はもう一日あるもの。たとえ風邪をひいて熱が40度あったって出てみせるわ」
「おいおい、瑠衣ちゃん……」
 黄龍はその言葉を笑い飛ばしかけて、凍りついた。ゆっくりと隣の小さな少女の顔色を窺う。
 どう見ても冗談ではなさそうだった。口はきっと引き結ばれているし、肩は小刻みに震えている。意思の強い大きな瞳がこちらを向いた。
「お願い、瑛那さん……あたしも戦いたいの!」
 
 真剣な表情の瑠衣に、黄龍は慌ててかぶりを振った。
「ちょっと、待ってくれよ……!そんなの、オッケー出来るわけないっしょ!?俺が赤星さんに殺されるって!!」
「あたしの独断だって言うわ!瑛那さんには迷惑かけないから!」
「駄目!しつこいね〜……!」
 黄龍は怒ったように頭を掻いた。
「瑠衣ちゃん、中学や高校の受験って受ける子供が思ってるほど軽いもんじゃないんだぜ!?絶対、後で後悔するって!」
「後悔なんてしない!!」
 はっきりと言い切る。

 その時突然、瑠衣の表情が変わった。頭痛でも起きたかのように顔を歪める。すがりつくように、瑠衣の右手が黄龍の服の肩の部分を掴んだ。紅茶の入ったカップが音を立てて地に落ちた。ダージリンの香りと共に、紅茶が地面に珠の飛沫を散らせた。
「……!」
「今朝、夢、見たの……いつも見てる夢なの。凄く嫌な夢なの……」
 その手は、ジャケット越しでもはっきりとわかるほどに震えていた。
「パパとママが研究棟の地下に取り残されてて、火災が起こって・・・・・・天井のコンクリートが落ちてきて、それで・・・・・・!!」
 後半は俯き加減で、ほとんど声にならなかった。瑠衣は身を縮めるようにして黄龍の胸に顔を寄せる。その嗚咽を呆然と聞きながら、黄龍は赤星に聞いたOZの壊滅状況を思い出していた。落盤と火災で、行方不明という死者も出たほどの状況で・・・・・・。
「・・・・・・」
 この子は……遺体を見たのだろうか?とても尋ねられそうにない疑問が黄龍の頭をよぎった。
「もう嫌……こんな夢、見るのはもう嫌!頭がおかしくなりそう……!!」
 肩が強く握り締められる。想像もしなかった瑠衣の激しい一面に、黄龍はどうすることも出来ずに彼女の頭を抱いた。

「多分、スパイダルを全部倒すまでこの夢は終わらないわ。……パパとママを殺したのはスパイダルだから……だから」
 瑠衣が低く囁く。その声を聞いた黄龍は全身の血の気が引くのを感じた。彼女に対して抱いていた妙な不自然さが一気に氷解する。しかし溶けた氷は氷山より冷たく感じられた。
「スパイダルを倒すまで、受験も学校も全部、あたしにはいらない……マジカルスティックとリーブスーツさえあればそれでいい!!」
「瑠衣ちゃん……!」
 否定したいと切に思いながら、唇をわななかせながら、それでも黄龍は何も言えなかった。小さな魚の骨が喉の奥に引っ掛かるように、何かが胸につかえて取れない。それは彼女に対する恐怖によるものか、ただの同情か、それとも……。
「瑛那さん」
 薄く削がれた氷のように鋭い瞳が黄龍を射抜いた。
「あたしを連れていって!!戦場まで……お願い……!!」



 自分を行動不能に陥れているその感情がいったい何なのか、はっきりと自覚するまで黄龍は相当の時間を要した。
 黄龍は他人の気持ちがわからなくなった時、取り敢えずは何も余計なことを言わず、意識して時間をかけて考えるようにしている。もっともこんなことが出来るのは客観的に他人を見ることが出来る時だけだ。自分はお世辞にも深慮とは言えないし、気も短い。100%実践できているとは言いがたい。だが、これは自分にとって絶対に必要な、自分なりのやり方であることも知っていた。
(今、瑠衣ちゃんに一番必要なことは何だ?)
 黄龍はそれだけを念じた。そうしなければまた、暗闇に心が引きずり込まれそうだったからだ。



 黄龍は静かに目を閉じてかぶりを振った。
「駄目」
「!どうしてっ!!」
 瑠衣は握りしめていた黄龍の服を強く引っ張った。激情のままに叫ぶ。
「瑛那さんなら……瑛那さんならわかってくれると思ったのに!!あたしの気持ち……!!」
「わかるから、駄目なの」
「……!?」
 思わず手を離す。黄龍は立ち上がり、身を屈めて瑠衣の落としたカップを拾い上げた。店で使っているカップの中で、黄龍が一番気に入っているマグカップだった。描かれている絵を指でなぞる。
「俺様も昔は……中学ん時くらいはそーだったよ。瑠衣ちゃんに比べたら全然マシだけど、俺様もそれなりにいろいろあったからさー……瑠衣ちゃんの方がずーっと偉いぜ。行動起こしてるもんな。だからそこんとこはまあ、違うけど……」

 瑠衣は黄龍の言葉を黙って聞いていた。黄龍が自分を説得するその口調は、赤星とも黒羽とも輝とも、それに有望とも違った。赤星のように相手を思い、厳しく諭すのではない。黒羽のように大局を教え、冷静な判断を促すのでもない。輝のように純粋に自分を心配しているのでもない。有望のように一番に瑠衣の気持ちを考え、その上で背中を押してくれるのでもない。黄龍の言葉はそれら全てであり、同時にそれらのどれでもなかった。ただ不思議と、瑠衣は頭ごなしに反論する気にならなかった。

「だからすっげーわかる。瑠衣ちゃんの気持ちはさ。ただ、瑠衣ちゃんがこのままいったら、多分俺様みたいになっちゃう。それって、俺様的には絶対反対なワケ。瑠衣ちゃんが真っ当な道踏み外して、何していいかもわかんなくって、他人に寄り掛からなきゃ生きてけなくって……こんな年まで昔引きずってるのなんて見たくねーよ」
「……」
 瑠衣は驚いて黄龍を見た。今の今まで黄龍が自分のことをどんな風に思っているのかなど聞いたこともなかった。……そんなに、自分のことが嫌いなの?そう聞きたかったが、それは言葉にならなかった。それは多分、今この人の言っていることが、少なくとも彼自身にとっては本当のことだろうと感じたからだ。

 いけね……また、やなこと思い出しそうになっちまった。黄龍はかぶりを振って、本題に入る。
「だからさー、瑠衣ちゃん。俺様と『取引』しない?」
「え……?」
 意味がわからない。大きく瞬きした瑠衣に、黄龍は人差し指を立ててみせた。
「瑠衣ちゃんはちゃんと受験して、志望校に合格する。で、俺様達は瑠衣ちゃんの代わりに今日、絶対に怪人を倒す」
「……!」
 瑠衣は目の前の男の顔を見上げた。まともに視線がぶつかった。
 彼は本気だった。表面だけは微笑んでいるが、確かに本気の顔だった。
「瑠衣ちゃんだって、ホントはわかってる筈だぜ?そうでなきゃ真面目に受験勉強なんてするワケねーもんな。……どーかな?俺様的には、結構利害は一致してると思うんだけど……」
「……」
 瑠衣は組んだ両手を握りしめた。



 ふと、目を閉じる。
(あれはいつのことだったっけ)

 赤星と黄龍が大喧嘩をした。
 それはいつもの黄龍と輝のようなふざけ半分の喧嘩ではなかった。黄龍は本気で怒り狂っていたし、赤星はとても哀しそうだった。瑠衣は下校直後、それを目撃した。
 瑠衣は、自分は物怖じしない方だと自覚している。学校でも、喧嘩やいざこざが有れば率先して止めに入る方だし、それを意識もしている。
 あの時だって、本当は止めに入りたかった。瑠衣にとって、赤星も黄龍も友人であり、仲間であり、兄でもある。大切な人達だ。喧嘩なんてしてほしくなかった。本当なら、すぐにでも二人のところまで走っていって、間に割って入って、「やめてよ!」と叫びたかったのだ。

(……でも、出来なかった)

 親しい人達の喧嘩でありながら、瑠衣は止めに入るどころか何か言うことすら出来ず、ただ怯えて見守っているしかなかった。その原因は黄龍だった。瑠衣は黄龍の表情を見た時、わけもわからず突然、足がすくんで動けなくなった。
 鬼面。それは、ただ怒っているのではないように瑠衣には見えた。黄龍の声を聞いた時、瑠衣はぞっとした。まるで彼の中に猛毒が入り込んでいて、でもそれは彼の心臓と完全に癒着していて、吐き出したくても吐き出せず、ひたすら苦しんでいるような・・・・・・。

 怖いと思った。でも、それ以上に泣きそうになった。辛そうだった。苦しそうだった。初めて彼の負の部分を目の当たりにして、瑠衣はとてつもなく悲しくなった。その辛さと苦しさが自分に流れ込んでくる気がして……。
 今ならはっきりわかる。あの時の感情は哀れみでも同情でもない。

 あれは共感だった。



「……違う……これは取引なんかじゃないわ」
 黄龍の表情が目に見えて硬くなる。瑠衣は構わず続けた。
「約束。これは約束よ、瑛那さん……!あたしの代わりに怪人を倒して。そしたらあたし……少しは納得できると思う。約束の相手が瑛那さんだから……あたしのこの気持ち、ちゃんと持っていってくれるってわかるから」
 そうでなかったらここまでの条件はとても呑めなかった。この人はあたしの気持ちを全てわかった上で、そう提案してくれる。そう感じた。

 パパとママが大好きだった。いつも仕事が忙しくて、普通の子のようにどこかへ連れて行ってもらうとか、いつも一緒にいてもらうとか、そういうことは殆ど叶わなかったけれど、その分二人とも自分をとても大事にしてくれた。遊びに行けなければその分たくさん本を買ってきてくれた。いつも一緒にいられなければその分たくさん話をしてくれた。寂しいと思ったことはあるが、他の子を羨ましいと思ったことは皆無だった。父も母も、自分のことを本当に愛してくれているということを、瑠衣自身が誰より知っていたからだ。

 そんな両親を他人の悪意によって一度に奪われたことは、瑠衣にこれまで抱いたこともない感情を根深く植え付けた。辛くて、悲しくて、悔しくて……憎くて。何者かの仕業だと知った時は腑が煮えくりかえった。他の人の手前、感情を爆発させることだけはしなかったけれど、全身の血が沸騰して、胸が溶けて穴が空きそうな気がした。それから三日三晩は泣き通しで、全く眠れなかった。悲しかったからではない。それを知るまでのわずかな時間の間に、悲しみの涙はすでに流し尽くしていた。悲しかったからではなかった。ただひたすらに、悔しかったからだった。
 瑠衣は、その自分の思いを本当に理解してくれる人などいないと思っていた。勿論、自分のことを両親と同じくらい大切に思ってくれている人達が沢山いるのはよく分かっている。赤星、黒羽、有望、伯母夫妻、葉隠博士……彼らがいてくれたお陰で瑠衣は今でも自分を不幸だとは思わない。
 だがそれと、自分の気持ちを本当に解ってくれる理解者がいることは、全く別の話だった。

(びっくりした……びっくりした。ホントに)
 本当に……そんな人がいるなんて思わなかったから。

「指切りしましょ!」
 突然、さっと小指を差し出す。面食らう黄龍を見て、瑠衣は可笑しそうに笑った。
「だってこのくらいしないと、あたしの方が挫けちゃいそうだもの」
「瑠衣ちゃん……」
 瑠衣のその表情を見た黄龍は、ようやく心から安堵できた。やっといつもの、見慣れた彼女に戻ってくれた……。深く深く息を付く。同時に、少女らしいその発想に思わず苦笑してしまった。どうやら、やらないことには解放してもらえそうにない。
「古いことやるね〜……今の子、こんなことすんの?」
 言いながらも素直に右手を出す。二人は小指を絡ませた。
「ママがね。あたしが小さくて聞き分けがあんまりよくなかった頃、よくこうやって約束をしてくれたの。……こうしてくれた約束はね、パパもママも絶対守ってくれたの。だからあたしにとって、これは願掛けみたいなものなの」
 指同士を絡ませた右手を少し振って、彼女はおきまりの文句を唱った。
 それは澄んだ優しい歌声だった。



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