山の中腹に作られた小さいカーポートにエアカーが着地した。降りてきたのはハジメ・タチバナただ一人。急な山肌に貼り付くように石作りの建物がある。あたりは氷で覆われているが屋根の雪は8年前に完全に除去したからきれいなものだ。大気にはもう雪になるような水分は残っていない。この小さな山は丸ごとハジメの私有地になっているし、こんなやっかいな場所にやってくる人間は誰もいない。
3日ぶりだったので玄関のすぐ脇に小さな温室を見に行った。今では珍しいオールド・パンジーの鉢が10数個、太陽灯を浴びてきれいに咲いている。留守中にトラブルは無かったようだ。
機材の並んだ研究室を通り抜けて自室に入り、机の上の2枚の写真にいつも通り挨拶する。1枚は5人の男女。1枚は母親と並んだ少女。平面写真を飾るなど廃れ果てた習慣だが、立体カメラが普及する何年も前に逝ってしまった人達なので仕方がない。
部屋には窓が無い。研究室の途中から先は地面を掘って山中に造られた形になっている。
古びた壁には透明でぶ厚い保護フィルムに封じ込められた年代もののジグソーパズルがいくつか飾られていた。どれもピース数の少ない小さなものばかり。モチーフは野草の慎ましやかな花が多い。橘朔也の唯一の趣味で、彼が逝った時、戸籍上の"息子"になっていたハジメがそれを貰い受けた。
橘朔也にここに呼ばれて、いきなり「お前を俺の息子にしたい」と言われた時は、さしもの相川始も驚いたものだ。かなり呆けた顔になっていたらしく、脇にいた睦月が年甲斐もなく笑い転げていたのを覚えている。だが橘は至極真面目に続けた。
「この施設一式、お前に受け継がせるにはそれが一番簡単だ。お前にはこれを受ける義務がある」
当時の橘が持っていた権力と財力なら、こんな施設を作ることも、戸籍の無い人間を自分の籍に入れることも可能だった。
なぜ天王寺がBOARDを橘に任せるという遺言を残していたかは永遠に謎だ。神となることを確信していた天王寺の皮肉だったのか、それともあの男の内にも良心はあったのか、はたまた全ては所長の烏丸啓の策略で、そんな遺言など無かったのか。
経緯はどうあれ橘は烏丸を後見にBOARDを真に人類のための研究施設として立て直した。そして潤沢な隠し資金を流用し、天王寺の別荘があったこの場所にこの施設を作った。
本質的には繊細な心根の橘が、結果としてどれだけの心労を抱え込んだかはわからない。睦月も始も彼の力になろうと最大の努力はしたが、橘は自分を追い詰めるように生き急いだ。彼が休むのは短い睡眠時間と小さなジグソーパズルを組む時だけのように見えた。
ハジメはパズルの1枚に近づくと、右の5本の指先を丁寧に決められた箇所に置いた。壁の一角にある薄い飾り棚がスライドし、その奥にトンネルが出現する。わずかな照明を頼りに天井の低いトンネルを進むと、壁も天井も金属で覆われた小さな空間に出た。何もないつるつるの壁面に手を触れると、壁の一角に切り込みが入り、小さな隙間が空いた。
隙間から真珠色の光が漏れ出てくる。大きな金属の塊を人間技とは思えない力で外し取ると、その内部には発光する大きな水晶のような石が保管されていた。半透明の結晶の中に、不思議な模様の描かれたカードが、幾枚も浮遊している。
相川始が橘から託されて、守り続けてきたもの。
封印されたアンデッドと、それらに関する全ての研究データだった。
Act.2 誓いし友へ
―― A Conclusion of Masked Rider Blade ――
枠のついた薄いディスプレイをそっとなぞると、懐かしい写真が次々に溢れだしてくる。殆どが平面写真だが中には動画もあって、声を聞けば350年などあっという間に遡れる。そっけない寝台に座り込んだ男は、ひたすらにメモリーブックを見ていた。男の長い人生の中でほんの僅かの、だが一番大切な思い出。これが見納めだ。
もうすぐ地球に残っていた最後の人々がシャトルで旅立つ。生き残っていた動物たちの保護と移動は数ヶ月も前に終わっている。
あと20時間もすれば、地球から生命が消える。2体のジョーカーを残して‥‥。
輝くディスプレイに映っているのは可愛らしい少女とその母親の写真だ。ログハウスの前でハンギングやプランターに植え込まれた春の花々に囲まれて幸せそうに笑っている。
「天音ちゃん」
相川始の口が自然にほころぶ。ただ一心を自分を慕ってくれた少女。男の在り方を変容させた二つ目の啓示だ。
机の上に、温室から持ってきた黄色いオールドパンジーが一鉢ある。写真の中の花と殆ど同じ。少女――栗原天音が一番好きだと言った花。彼女の死後園芸品種がどんどん改変されてしまうことを知って、慌てて育て継いできたものだ。
自分は人間ではない。
この母娘にそう告げたのは少女が17歳になった時だった。
けっして人として生きられない化物だ。天音の父が死んだのは、自分と他のアンデッドとの闘いに巻き込まれたからだ‥‥。
美しく成長していく少女。変わらぬ自分。向けられる想いが何なのかそろそろ判ってきた頃だ。真実を言わぬ訳にいかなかった。
遥香も天音も自分を拒絶しなかった。それでもいいと言ってくれた。だがもうそれ以上、一緒には居られなかった。人がよく言う「泣きたい」ということがどんなことなのか、この世に生じて初めて知った。
この懐かしい家を出たあともずっと二人のことを見守ってきた。少女に恋人ができ、結婚し、可愛い男の子と女の子が生まれた。遥香が逝った時は弔いの儀式に付き添うことができた。そして少女の連れ合いが亡くなり、少女自身が病に伏して‥‥。
人間がアンデッドと名付けた52種類の動物の鋳型。決して変化せず、死なず、ただ封印されて眠るだけで永遠に生き続ける。統制者の下で1万年前に生き残りをかけて戦い、その時は人間の鋳型、ヒューマン・アンデッドが残った。そして350年前、統制者の力を利用しようとした天王寺博史が始めたバトルファイトで残ったのが‥‥。
この自分。
どの動物の鋳型でもない53番目のアンデッド。ジョーカー。
より強き生命を残すための試金石。闘いの過程で敗北すれば良いが、勝ち残った場合は他の全ての命を滅ぼし、再び始まるバトルファイトの土壌を作る役目を担う。他のアンデッドのように望みを叶えることはできないし、子孫も作れない。だから何の為でもなくただただ他のアンデッドを封印することしか考えない、残虐な殺し屋‥‥。
男の眉間に深い皺が刻まれる。ふうっと息をつくと、またディスプレイに触れた。
次のムービーは若い二人のウェディング・セレモニーだった。人なつっこく優しい少年の瞳。勝ち気でだが慈愛に満ちた少女の瞳。上条睦月と望美だ。
結果的に男の人生を長きにわたって支えてくれた者は、全てこの二人の子孫だった。もちろんカミジョウの名を捨てた者も、BOARDとは無縁の生活を送っている者も沢山いる。だがごく一部の人間だけは真実を語り継いでくれた。それがどれだけ驚異的なことで、どれだけ自分の救いになったか‥‥。その最期がシンゴになる。ヒカルを煩わせることはもう無いだろう。
アンデッドの影響を多大に受けるレンゲルバックルを使い続けた上条睦月こそが、アンデッドそのものである自分を真実理解してくれていたのかもしれない。アンデッドはいわば生存本能の実体化した存在なのだ。他のアンデッドが存在していることは、即ち己が「生きていない」状態であることを示す。勝ち残って初めて「生きる」。わざと負けたり戦いを放棄することは出来ない。戦って、戦って、戦い抜いた末に敗北を自覚して初めて、身体が変容し封印を受け入れられる。アンデッドはそのように出来ている。
それでも相手がアイツなら、負けることもできると思ったのに‥‥。
男が指先で軽くディスプレイを叩く。映像が変わり、険しかった男の顔が少し緩んだ。
天音の叔父の白井虎太郎と栞の夫妻だ。白井は科学雑誌の解説記事を書く片手間にBOARDの広報活動を手伝うようになった。
白井がやはりBOARDで仕事を続けていた広瀬栞に結婚を申し込んだのは事件の3年後。望美と天音というおせっかいな応援団の後押しもあったようだが、栞は白井と一緒に生きる道を選んだ。
始と橘と睦月にとって、あの闘いが終わってからしばらくはぎこちない時期が続いた。それは当然のことだ。顔を付き合わせれば、否が応にも思い出す。結局全てを、たった一人に負わせてしまった‥‥。
だがその場に白井がいると空気が和んだ。完全な部外者でありながら真実を全て知っていた唯一の人間。だからこそ彼の存在は、栞にとっても他の連中にとっても一種の癒しだった。
またディスプレイに触れる。作業着姿の二人の青年が並んでいる。落ち着いた微笑みを浮かべているのが橘朔也。その隣で屈託なく笑って、Vサインを出しているのが剣崎一真。剣崎がカテゴリーAとの融合を成功させてしばらくした頃の写真だという。
剣崎の写真はほんの少ししか無い。特に知り合って以降のものはほんの数枚。心を許し始めてから別れるまで、半年かそこらしか無かったのだから。
剣崎一真。
自らアンデッドになることでバトルファイトを終わらせない道を選んだ驚くべき人間。
剣崎は自分を信じた。そして睦月も白井もそして橘さえも、最後にはこの身を助けてくれた。だが最後のアンデッドとなった時、生命の掃除屋どもがあふれ出してくるのを止められなかった。ジョーカーの宿命から逃れることができなかった。
剣崎一真の身体から緑の血が流れ出したあの瞬間まで‥‥。
あの時の感覚が、激しい痛みと共に、今もこの胸の内にある。
行ってしまった、たった一人で。
世界を救い、ジョーカーであるこの身が、ありのままに存在することを赦して。
かわりに、異形の姿で生き続ける、永遠の孤独を背負ったまま‥‥。
始は肌身離さず持っている1枚のカードをとり出した。整った人間の横顔が刻印されている。ヒューマン・アンデッドが封印されているラウズカード。不死のヒューマンアンデッドはこのカードの中で生き続け、自分をこの姿に保っていてくれる。
だが剣崎の身体はごく普通の人間のものだ。ジョーカーが永遠に生き続けても、あの身体は‥‥。
それにジョーカーには上級アンデッドのような擬態能力が無い。人間の姿になることはできない。
あの戦いの後、烏丸と橘と栞は天王寺や広瀬義人の研究結果を集め、このカードを調べて複製を作ろうとした。せめてそれを剣崎に届けられれば、始と同じように人の社会の中で生きていくことができる。
だがヒューマン・アンデッドはどうしても実体化しなかった。アンデッドは生命の鋳型。同じ遺伝子系統を持ったものが複数存在することは不可能なのだ。過去作られた人造アンデッドにオリジナルと同一のものがなかったのはそのせいだ。
生命の始祖でないジョーカーだからこそ複数存在し得たとは、なんという皮肉だったのだろう。
「剣崎‥‥」
今まで数限りなくそうしてきたように、始は苦痛に歪んだ顔で、晴れやかに笑う剣崎の姿にそっと触れた。そうして机の上の写真を見やる。栗原遥香と天音の母子。そして剣崎の部屋にずっと飾ってあった5人の写真。手前にいるのが白井と栞。後ろに立っているのが、睦月と橘。そしてその間に、やはり底抜けに優しい笑顔の剣崎‥‥。
誰かを失うなら自分が消えた方がいいと思った。
常に異端であった自分が、初めて知った、仲間だ‥‥。
「剣崎‥‥。結局何もできなかった‥‥。許してくれ‥‥。橘、睦月‥‥、みんな‥‥。
でも、もうすぐだ‥‥。やっと、会いに行けるから‥‥」
===***===
氷上で、"それ"はびくりと上半身を起こした。
まだ脚をだらしなく投げ出したまま、ゆっくりと頭をかしげる。
何かが近づいてくる。
カマワレタク、ナイ。
カマワレタラ、オレハ‥‥。
イドウ、スルンダ‥‥。
ゆっくりと片膝を立てたところで、"それ"の身体が大きく揺らいだ。ぐげっという声をあげて仰け反ったかと思うと、嘔吐でもするように前に屈み込んだ。
驚いたことに何年も動いていなかった"それ"の両脚は、既に身体の下に引き込まれていた。額から鼻梁にかけてをガードしている半透明の甲殻の中で、複眼に光が走る。背中側に寝ていた触角がくんと立ち上がった。"それ"の全ての感覚機能が息を吹き返す。
そのうち剥き出しになった歯が、カチカチ‥‥と小刻みに音を立て始めた。尖った顎のすぐ下、胸元の緑色の部分が、どくんっ‥‥と大きく脈打つ。左足と左腕の甲殻から覗いた筋肉部分が引き攣っている。
イケナイ‥‥。
ニゲルンダ‥‥。
震えていた剥き出しの歯がぽかりと開いた。その空洞から絶叫が放出される。恐怖の悲鳴とも、歓喜の雄叫びとも聞こえる。左手にいつの間にやら緑色の得物が握られている。
‥‥ダメ、ダ‥‥。
ニゲロ‥‥。
ニゲナケレバ。
"それ"の全身は、逃げようとする意志と飛び出していこうとする意志に、引き裂かれんばかりに痙攣している。胸を食い破って出て行きそうな心臓を両手で押さえ込む。
ヤッタゾ、アイツダ、アイツダ‥‥。ヤットミツケタ‥‥。アイツダ、タオセ、タオセ‥‥。
ダメダ、ダメダダメダ。ニゲロ、ニゲロ‥‥。タオセヤツヲタオセ、ニゲロニゲルンダタオセ、タオセタオセ、チガウ‥‥チガウチガウ‥‥ヤツヲタオセ、タオセタオセタオセ‥‥
複眼を構成する2千の瞳に、地平線から現れた一つの生命の姿が映った。亜麻色のコートを着た人間。どんどんと近づいてくる。"それ"は震え戦いたまま、ゆらりと立ち上がった。
コートの男は少し離れたところで立ち止まった。その口がゆっくりと開いた。
「‥‥剣崎‥‥。俺だ。始だ」
"それ"はいやいやをするように、首を振り、少し後じさった。だが同時にその身体は、今にも男に飛びかからんばかりに沈みこんでいる。弾むような躍動感が、その黒と緑の身体全体にみなぎっていた。
相川始が、もう一度言った。
「終わりにしよう、剣崎。俺達の彷徨を‥‥」
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