静かだ。
ただ一面に雪と氷が広がる。
完全に枯れ朽ちた木々の名残が、あちこちに突き出ていた。

目覚めを待つものも、芽吹きを待つものも、誰も、いない。
命が抜け落ちたような、この、静けさ。

それでもこの一帯には、辛うじて光と呼べる薄日が到達する。
白一面の世界で仄かな光を反射させる氷の粒達。

そんな景観を"それ"は見るともなく見ていた。大きな木の残骸によりかかるように座り込んで。

"それ"の内には、未だ鋭い牙がある。衝動のままに動こうが、動かずに耐えようが、"それ"自身を抉り苛む牙。

もがき回って越えてきたのは、空間か。それとも、時間か‥‥。


ただただ白い世界の中でグリーンと黒の艶やかなボディが鮮やかに映える。それを目にする者が誰も居ないのが、惜しいほどに。

その無人の静けさこそが"それ"を鎮める。己以外の生命が感じられないこの場所に、"それ"は安らぎを思い出し始めていた。

何年かぶりに、"それ"はゆっくりと腕の位置を変えた。首の向きも少し。ゆらりと触角が揺れた。そのまま再び動かなくなる。"それ"に訪れた静かなまどろみの時間は続いていた‥‥。


 Act.1 白き終幕
―― A Conclusion of Masked Rider Blade ――


どんよりと厚い雲の下、ひたすらに薄鈍色の氷が広がっていた。その中を布製のオーバーコートを着込んだ男が歩いてゆく。いくら夏とはいえ、気温は−25℃。蓄熱型か発熱型の耐寒スーツを装備するのが常識だ。だが彼は寒そうなそぶりも見せず、片手に黒いケースを持って、氷上に点々とスパイクの跡を残していた。

西暦2350年8月。TOKYO。
こんな風景が当たり前になって、もう20年以上が経とうとしている。

男はマシンまでたどり着くとリーブトロン・エンジンのスイッチを入れた。驚いたことにエアカーでなく、旧型のスノーモービルだ。近くの枝からつららを折り取ると、細い先端をぱりんと囓る。この厳寒の中、口中で溶けた冷たい水を飲み下した。エンジンの回転数が上がったことを確認してモービルにまたがると、ほとんど氷板に近い雪原を鮮やかに走り抜けて行った。



ちょうど40年前のことだ。ある巨大彗星が地球に接近した。それは完全に地球に衝突する軌道を描いていた。様々な測定とシミュレーションの結果、衝突範囲は80%の確率で地中海付近。ヨーロッパから中東、アフリカ北部が壊滅すると予測された。たとえ運良く大洋のど真ん中に飛び込んだとしても津波、地震の被害は甚大。なによりこの質量では99.99999%の確率で地球の軌道が変ってしまう。
彗星を調査した結果、生命が存在しないことが判明し、国連は彗星の爆破を決定。地球平和連合TPCを中心に各国の技術と力を結集して、彗星の半分以上を爆破し、軌道を逸らすことに成功した。

だが、事件はそれで終わらなかった。彗星を構成していた未知の物質が厚いガスとなって地球を覆い、太陽の光と熱の5割を遮断した。終末論をとなえる人々は彗星をオメガと呼んだが、それが人々に浸透したのもこの頃だ。科学界は認めなかったが、マスコミ含め多くの人たちがその未知のガスを構成する物質をオメガ粒子と呼んだ。
それは太陽の光と熱を吸収し分裂して増殖していく不思議な物質だった。高熱によって「燃やす」と無害な元素に還元するが、その過程で放射能を発する。打開策の見つからぬまま、オメガ層はどんどん成長し、地球は再び氷河期を迎えたのだった。



モービルを駆る男はそのまま街に入っていった。建物の4階近くまでを氷が覆いつくしている。ここに居る人間もほんの僅かになった。男は唯一明かりの灯っているビルの端にモービルを止めた。本来は非常時の脱出用に各階に作られたエアカー・ポートが通常の出入り口に転用されて久しい。男はBOARDと書かれた鋼鉄のドアをそっと開けた。


一週間後には地球に残っている最後の人間達が旅立つ。月のコロニーに向かって‥‥


リーブエネルギーを中心とする新エネルギーによって、低温対策は可能だった。だが、当然のことながら太陽光が無ければ植物は生きられない。ひいては動物たちも‥‥。人工太陽の温室ももちろんあるが、いくら大規模なものを作った所で追いつかない。太陽の偉業は決して人間が補えるようなものではなかったのだ。

とうとう人類は地球を離れることを決意した。22世紀初頭からTPCを中心に進められてきたネオ・フロンティア計画のおかげで、オメガ到来の時は既に、地球の人口の3割が生活基盤を宇宙に移しており、8割の人間が宇宙旅行の経験を持っていた。ゼロ・ドライブ航法があれば何百光年先の惑星へも数週間で到達できた。

最後の希望。それが全ての始まりになるように、オペレーション・アルファと名付けられた。

無人になった地球のオメガ層を焼き払い、その後で放射能を除去するのだ。いつか再び地球に戻る日を信じて。
地球の4箇所から一週間後に飛び立つ4台のスペース・シャトルによってアルファは実行される。オメガ層の中に同じタイミングで圧縮光子爆弾を投下し爆発させ、連鎖反応によってオメガ層を焼却するのだ。4台のスペースシャトルに乗り込んだ科学者と技術者とパイロット達は、そのまま月のコロニーに滞在し、地球の様子を観測する任に付く。

そして日本でオペレーション・アルファを担うのがTPC極東支部とそしてこの世界で最も偉大な研究所BOARD――生命生存基盤技術研究所―――だった。


男は建物に入ると黒いケースを置いてコートを脱いだ。背は低いが、がっしりした体つき。ひょろ高くて細身な現代人の中では珍しい体格だった。指紋認証のあと内側の防寒用の重い扉を開けて中に入った。

「タチバナさん!」
もこもことした青いセーターを着込んだ青年が長い廊下を駆け寄ってくる。男は自分を律儀にファミリーネームで呼ぶ青年の様子に苦笑した。
「廊下は走るな。また怒られるぞ、ヒカル」
「もういいじゃないですか。この場所、走り納めなんだし」

くるくると好奇心旺盛な丸い黒い瞳。青年の名はヒカル・カミジョウ。本当は学生なのだが実質的には見習い研究員に等しい。BOARDの最高責任者であるシンゴ・カミジョウの孫にあたる。

「またモービルで行きましたね。モニターで見ちゃった。タチバナさんこそ、
 お祖父ちゃんに怒られたって知りませんからね」
大人ぶったヒカルの物言いに、今度は男のほうが言い訳がましく応える。
「いいじゃないか。エアカーは好きじゃないんだ」
「危ないですよ。あんな古いきか‥‥‥‥わ!」

いきなり背中をどんと叩かれたヒカルが振り返る。少女がぷうっとふくれて見せた。
「もう、ヒカルったらいきなり飛び出してっちゃうことないでしょ?」
「うるさいな、レイナは。タチバナさんとすぐ戻るつもりだったんだからいいじゃん」
「そういう問題じゃないの。だからあなたは子供だって言うのよ。ね、ハジメさん?」
レイナがいきなり男――ハジメ・タチバナ――にそう振った。じゃれ合う恋人同士の様子を微笑んで見ていたハジメは、慌てて少女に賛同の頷きを返した。

レイナはヒカルの2歳下でやはり学生だ。彼女の親もオペレーション・アルファに従事していて、最後のシャトルで地球を離れることになっていた。ヒカルとレイナはこのシャトルで一番若い乗組員になる。

レイナはファミリーネームを持たない。DNAによるID化が一般的になってから、名前は本人が自らを演出する指標の一法になり、多くの人は名字というものを持たなくなっていた。だからレイナにしてみれば名前で呼び合うのはごく自然なことだった。
それでも自らの祖先に思いを持つ者達は、祖先の名を語り継ぐためにファミリーネームを使い続ける。ヒカルは親の言うままに素直にカミジョウと名乗っていたし、ハジメにはタチバナの名を決して捨てられぬ理由があった。

「そう言えば、タチバナさん。シャトルの船室、お祖父ちゃんと一緒でいい?
 僕達の部屋が機材の関係で3人しか寝られなくて。そうしたらお祖父ちゃんが
 ぜひタチバナさんと一緒の部屋でって言ってたよ」
「そうか。ありがとう。私もチーフ・カミジョウと相部屋なら有り難い」

「うちの船室がちょうどその部屋の隣なのよ。なんか嬉しいな。とにかく、ハジメさんが
 シップに乗ってれば、絶対にオペレーションもうまく行くわ」
ハジメが怪訝そうな顔をする。
「なんで? 私はアルファについては何もできないよ」
「いいの。ハジメさんが居ればうまくいくんだもん」
レイナは根拠のない言葉を、これ以上の確信は無いというくらいきっぱりと言ってのける。ハジメは不思議そうな顔で目をぱちぱちし、ヒカルが苦笑した。

「ほら。タチバナさんって、今までもずっと、危険で厳しい環境にふらっと出かけて
 調査したりサンプルを取ってきてくれたりしていたでしょう?」
「‥‥まあ‥‥。私の身体は、少し、変わってるからな‥‥‥‥」
「そうかもしれないけど。でも、貴方が一緒だと、幸運の神様が傍にいるような気になるんですよ。
 そう思ってる人、僕らだけじゃない」
ハジメが驚いた顔をする。口元が嬉しさと自嘲を行き来して少し歪んだ。

「ハジメさんが最後まで付き合ってくれることになって、月に一緒に住むことになって
 あたし達すごく嬉しいの。ちゃんと式にも来てね。絶対よ」
ヒカルとレイナの無邪気な瞳に見つめられて、男は一瞬、目を見開いたが、すぐに笑ってみせた。
「‥‥ありがとう。呼んでもらえて嬉しいよ」

若い恋人達は顔を見合わせて幸せそうに笑い合う。
ヒカルとレイナのウェディングの話題は、アルファの遂行者達の中では"救い"に近かった。晴れてその日が来ることは、すなわちオペレーションの成功を意味するからだ。若い2人もまた、そのセレモニーが自分たちのためだけでは無いことを知っている。古き良き時代を知る者にとっては満足の行く準備など出来ないに違いない。だがこの世代の若者達は生まれた時からそんな時代に生きていた。

ハジメは思い出したように床に置いたケースを取り上げた。
「チーフは部屋にいる?」
「うん。いると思うよ。それ、なんなの?」
「土だ。神埜山の麓でとってきた」
「あのあたり、もうそんな場所無いでしょ?」
「洞窟を見つけたんだよ。入り口で苦労したけど、なんとかね」
ヒカルは呆れたように溜息をついた。


===***===

ハジメはCEOルームでソファに沈み込み、飾り棚の立体映像をぼうっと見ていた。保温されたコロイド・クッションが彼の身体を優しく受け止めている。

映し出されているのは、初めて民生用に作られたリーブトロン・エンジンだ。21世紀に発明されたリーブトロン。それをを改良して窒素を原料にする完全無公害の小型エンジンに仕上げたのはBOARDだった。その上その技術を驚くような低価格でメーカーに供給して社会を驚かせた。BOARDがそれを率いる橘朔也の名と共に人々に知れ渡ることになったのは、このエンジンがきっかけだった。

(橘らしかったな‥‥)
ゆっくりと回転するエンジンの映像を見ながらハジメは寂しげに微笑んだ。

研究所の幹部たちが橘の写真を施設内に飾ろうと言い出した時、橘は頑としてそれを受け入れず、代わりにエンジンの模型を飾るように言ったのだった。BOARDは常に人々のためにあることを忘れないように、と。その後、模型は立体映像に置き換えられたが、橘の思いは長い年月を越えて生き続けている。

300年以上も前の出来事。
ハジメがまだ「相川 始」と名乗っていた頃のことだ。

BOARDの創始者であり理事長だった天王寺博史の名は既に消え去っている。天王寺が引き起こした"人工的バトルファイト"のことも。どこから出現したのかもわからない謎の怪物達が人々を襲い、"仮面ライダー"と呼ばれる者達がそれを倒したという話も、人々の口端に上ったのは事件後30年ぐらいの間だった。

アンデッドとライダーの闘いを出版したいという白井虎太郎の夢は叶わなかった。もちろん意欲は燃やしていたが、栞の涙は決定的だったようだ。白井自身も心の中では判っていたのだ。「真実を知る権利」は確かに独裁指向の人間を抑止する要素がある。だが余分な知識によって犯罪を起こす人間も多い。哀しいかなそれは300年前を経た今でも同じだ。
ライダーシステムが悪事に利用されることがあってはならない。それはあの事件にかかわった全ての人間の願いだ。

そうだ。
剣崎一真の名にかけて。
口に出す必要などないほどに、皆の心にその名があった。


「お待たせしました。タチバナさん」
穏やかな声に振り返る。入ってきたのはBOARD最高責任者のシンゴ・カミジョウ。白銀の髪に濃紺の詰め襟の長衣がよく似合う。老人は見かけでは半分以下の年齢に見えるハジメに丁寧な一礼をした。
「ああ、シンゴ。どうだった?」
ハジメはシンゴに歩み寄るとひじ掛け椅子まで導いてやる。老人は恐縮しながら、ほどよく暖まっているクッションに身を沈めた。
「やはりバクテリアや菌類は活動が低下しているだけです。土の中には有機物も十分含まれている。
 光さえ届けば、地球は蘇ります」
「そうか。良かった‥‥」
「あとはアルファ次第です。厚い氷は放射能の防護壁の役割を果たすでしょう。
 もしかすると私も、生きてもう一度、地球の大地が踏めるかもしれない」
「そうだね、シンゴ。君の努力の成果だ。よくやってきたと思うよ、ずっと‥‥」

シンゴ・カミジョウはまるで子供の頃に戻ったような恥ずかしそうな笑顔を浮かべた。その笑みに、ハジメはまた大切な友のことを思い出す。

上条睦月。シンゴやヒカルの祖先だ。

純粋な人間でありながらアンデッドの声を聞き、その思いと同化し、はたまたアンデッドの心を開き、彼らに慈しまれた少年。まさに己の内に光と闇を諸共に抱え込み、生き抜いた‥‥

橘はあの生真面目な性格のまま、己の命を削るように仕事に打ち込み、60歳の声を聞く前に過労で逝ってしまった。そんな橘を最後まで支え、その後の道筋を繋げたのは8歳下の睦月だった。17歳までで感情の隅から隅まで経験するハメになった睦月は、真に懐の深い男に成長した。そして今や上条の家系の中の、選ばれた者だけがバトルファイトの真相を語り継いでいる。

「タチバナさん、どうしました?」
「いや‥‥。ヒカルが、その‥‥。会うたびに似てくるなと思って‥‥‥」
「ムツキ・カミジョウにですか? なんどかスティルを見ただけなのでよくわかりませんが」
「性格はそうでもないけど、目のあたりがとてもね。ヒカルとレイナには幸せになって欲しいよ」
「はい。私もそう思います」
「‥‥あの‥‥シンゴ‥‥」
「はい?」

ハジメは少し言いよどみ、意を決して老人の顔を見つめた。
「私は、シャトルに乗らないよ」
シンゴが息を呑む。ハジメは構わず続けた。
「乗れないんだ。あいつを置いて行けない」

シンゴが嗄れた声で言った。
「‥‥もう一人の‥‥ジョーカー‥‥」
「ああ」
「‥‥‥‥貴方が、そう言い出すのではないかと思っていました‥‥。でも‥‥」
シンゴが悲痛な眼差しでハジメを見た。
「その方も、ムーンベースにお連れするわけにはいかないんですか?」
ハジメは黙って首を振った。シンゴが言葉を重ねる。
「でもあと一週間あります。何か方法を‥‥‥‥」

ハジメが泣き笑いのような表情を浮かべた。
「‥‥シンゴ。ありがとう。ヒカルやレイナも‥‥。でも、わかって欲しい。
 君たちのそういう想いを、その優しさを、受けるべきはあいつだった。
 俺があいつから全てを奪った。‥‥‥‥あいつは‥‥‥‥」

ハジメは立ち上がり、シンゴをまっすぐに見おろした。
「時が来たんだ。やっと‥‥」


<<Back    Next>>
===***===***===***===
2005/7/2  

background by 幻想素材館Dream Fantasy