その7:怪奇大作戦の怪奇

先日とうとう「怪奇大作戦」を全話見終わった。結論から言うと大変面白かった。見る機会があるならぜひお勧めしたい。しかしながらこの作品について、私の心の中には一つの不思議が残っている。それは「なぜこの番組はここまで魅力的なのか」という根本的な問題だ。
ちなみにこの番組は熱烈なファンが多く、ネットでちょっと検索すれば位置づけや登場人物など詳しい記述にいくらでもお目にかかるので、ここではそういったことは端折らせて頂く。ファンの熱い語りもぜひごらん頂きたい。

円谷プロダクションが1966年にウルトラQとウルトラマン、その翌年にウルトラセブンを世に送り出し、1968年に「怪獣」から大きく方向転換して作成されたのが「怪奇大作戦」である。
主役になるのは民間組織である科学捜査研究所SRI。この組織はもともと鑑識課課長だった的矢(原保美氏)が、科学捜査の必要性を痛感して警察を退職して作ったことになっている。警察の相談を受けて謎の怪事件を科学的に解明して解決していくという物語だ。

出だしで突拍子もない事件が起こる。たとえば電話を受けた人間がいきなり燃え上がるとか、壁の中をすり抜けていく強盗とか。このあたりの映像は本当に素晴らしいものがある。そして警視庁の町田警部(小林昭二氏)が事件をSRIに持ち込む。SRIは色々な実験によって、リュート線とか水棲人間とかリアルSFな雰囲気で事件の謎を解いていく‥‥。
SRIは技術的な問題はけっこうあっさりと解決するのだが犯人の屈折した心理状態は決してほぐれることはない。娘を他の男に渡すまいとして殺人を重ねる父親。火口に飛び込んで自殺して、それでも好きな女性が忘れられずに異様な生命形態で戻ってくる男‥‥。

本などでは怪奇ブームを狙って作られながら人の心に潜む屈折した心理を描き出した点が素晴らしいと言われる。だがその言葉は、この番組を評するのに本当に適切なのだろうか?

何度も言うがこの番組はとても面白い。特に演出には目を見張るものがある。映像も素晴らしい。登場人物も魅力的だ。だが、それと同時に、作り手は何がやりたかったんだろうという、どこかひっかかるような感覚が残るのも事実だ。
もし、最初から人の心理に潜む闇が最初からテーマだったのなら、こちらも心理捜査官のような人間をぶつける方がスジにあってる。だが「怪奇大作戦」そうではない。結果的に視聴者を最も引き込むことになったポイントに、主人公たちが噛み合ってない。そこが違和感になる。

私の勝手な考えだが、この番組は制作当初は心霊現象や怪奇現象を「科学的」にアプローチして解決することがテーマだったように思える。普通ではありえないような驚愕的な怪奇現象を映像にするには円谷の優れた特撮技術はもってこいだ。そして熱い正義感を胸に厳密な調査と実験から、事件を科学的に解決していく男達を描いていこうと‥‥。まさに主題歌に歌われているように。

だが、第1話のラストで犯人の元マジシャンは狂気の中に我が身を沈め、警察やSRIの手の届かないところに行ってしまう。犯人が科学を悪用して作り出したその現象は解決できても、その歪んだ心は科学的アプローチではどうしようもない。
あっさりと科学の勝利では「怪奇感」が足りないと計算してそうしたというよりは、書いているうちに、作っているうちに、そうなってしまった‥‥という感じ‥‥。そしてこの1話がこの後の番組の方向を決めたように思える。

監督さん方は監督さんで、演出や特撮に工夫を凝らしておおっというような映像を生み出す。そして、SRIの頭脳である牧史郎役で、かの名優岸田森氏が、その独特の魅力を余すところ無くさらけ出す‥‥。怪奇大作戦の中でも名作と名高い「京都買います」も、冷静にストーリーを考えていくとおいおい!という部分は多い。それでもどうしようもなく牧と美弥子(斉藤チヤ子氏)に釘付けになってしまう。

プランも計算も吹っ飛んで、脚本家もスタッフも役者も、皆が皆、いやおうなくそちらの方に流されて、そうやって出来上がった作品‥‥。怪奇大作戦はそんな作品のような気がしてならない。

意識したわけではないのに、作り手が暗黙の了解のように「闇」を「人」の中に見いだし、それを、自らの言葉で、映像で、演技で、表現した。その不思議な共通意識のようなものこそ、怪奇大作戦の「怪奇」であり、最大の魅力‥‥であったと言ったら言い過ぎだろうか?
2003/07/03

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background by Little Eden