第7話 蒼龍・火竜
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黄龍の右肩に少しひねりが入った時、その拳がどういうラインで入ってくるか、赤星は正確に描くことが出来た。だが、彼が準備したのは歯を噛み合わせたことと、倒れないように膝をかすかにゆるめたことだけだった。

相手を焼こうとする前に、自らを焼灼してしまう焔(ほむら)だ‥‥
こんな怒りを見ると、いつもどうしたらいいか、わからなくなる‥‥。

その事実がひどく哀しくて、それは十分に殴られる理由になるように思えた。

教えた通りに短めの軌跡を描いて右拳が左頬に入ってきた。リーチの長さを最も効果的に生かす正拳。赤星は右後方に一歩踏み出して上半身を支えた。口の中にツンと血の味が広がった。

黄龍が飛び出していったあとの、乱暴に閉じられたドアのベルが長く余韻を響かせる。

「‥‥輝、わりぃ。氷、用意しといて」
泣きそうな瑠衣と輝の顔を見て、悪いことをしたなと思った。

洗面所に入り、口を漱いだ。水が薄く赤色に染まって排水溝に流れていく。

(あんたを信じかけた俺がバカだったんだ‥‥)

黄龍の抉るようなつぶやきが頭にこびりつく。
冷たい水を両手にすくい、じゃぶじゃぶと顔を洗った。

戻ると、輝が、氷を大きなあめ玉ぐらいに砕いては、次々にアイスペールに放り込んでいた。
「おいおい、輝、そんなに、いらないよ」
赤星は思わず微笑んで、そのかけらを二つ口の中に放り込んで、左頬をふくらませた。
「あ、そだね。つい‥‥! だ、だいじょうぶなの、リーダー?」
「俺があのくらいでなんともないの、お前が一番よく知ってんだろ。ほら、瑠衣も、泣くなって」
氷を含んだまま、もごもごした声で言った。

「だって‥‥。どうしたの? 瑛那さん、なんであんな‥‥」
濡らしたタオルを差し出す瑠衣の頬を、ぽろぽろと涙が転がり落ちる。
「いや、ちょっと下でケンカしただけ。もう、大丈夫だからさ」
タオルを受け取って左頬に当てながら、右手を伸ばして瑠衣の頭を撫でる。

「違う‥‥。そんな、その場のケンカじゃないんでしょ?」
瑠衣はすがるように赤星のジャンパーの腕のあたりを掴んだ。
「赤星さん、怒ってる? 瑛那さんのこと、怒ってる?」
「怒ってねえって」
「ほんとに怒ってない?」
「ああ」
「ほんとうに? ほんとうに怒ってない?」

赤星は瑠衣の顔をまじまじと見た。少女の瞳は大きく見開かれ、涙があとからあとから溢れてくる。何か必死で訴えてくるようなその眼差しに、呑み込まれそうな気がした。

瑠衣は黄龍を理解してる。自分と違って‥‥。なんとなくそう感じた。
少女が戦いたいと言った時、黄龍が最初にそれに味方したことを思い出した。

制服のままの瑠衣の肩を抱き寄せる。謝罪の言葉がこみ上げたが、あえてもう一度繰り返した。
「黄龍のこと、怒ってなんかねえよ‥‥」
その身体をそっと押しやり、もう一度、瑠衣と輝に笑いかけた。
「二人とも、もう、心配するな。いいな」


赤星はグラスを一つ取ってもらうと、そこに氷をじゃらりと放り込み、店の外に出た。黒羽が静かについてくる。一足先に外階段を降りると、下から黒羽の顔を見上げた。
「黒羽、教えてくれ。俺は黄龍の何を裏切った? 情けねえけど、俺にはどうしてもわからねえ。ただ、浅見さんに謝ったことに関しては、間違ってなかったと思ってるんだ‥‥」

赤星の真剣な眼差しに黒羽が珍しく優しい調子で答えた。
「お前さんは何も悪くないさ。ただ瑛ちゃんが独り相撲、取ってるだけだ」
「独り相撲‥‥?」

「アイツが組織がどう、権威がどうのと必要以上に喚くのは、そういうものに向き合うことから逃避している自分に気づいてるからなのさ」
「逃避つったって、お袋さんとむりやり別れさせられたんだから、仕方ないんだろ?」
「ガキのころはな。だがアイツだってもうそろそろ、わかってるはずなのさ。あのとき黄龍財閥が崩れたら、日本の経済社会にどれだけの影響が出たか‥‥。そのために親父さんが、どれだけの思いを抱えて戻ったか‥‥」

黒羽は赤星の隣に並ぶと、階段の手すりに肘をついてよりかかった。
「婆様の理不尽な要求に唯々諾々と従った親父が許せねえ反面、若くして黄龍の危機を乗り切り、あのどでかい存在の手綱をうまくとってる親父を尊敬もしてる。婆様が象徴する憎むべき権威。それに屈したようでいながら、重責を背負ってやるべきことやってる親父‥‥。そういったいろんなことを整理できないまま逃げ回ってる自分を、瑛ちゃんはちゃんと自覚してる。アイツが最初から何かとつっかかったのも、お前の中に親父さん見てたからかもしれないな」

赤星は、黒羽の話を聞きながら無意識に氷をぼりぼりと噛み砕いていた。
「なんか‥‥わかったような、わからねえような‥‥‥‥」
黒羽がくすくす笑いながら、いつものからかうような口調になった。
「単細胞のお前さんには、難し過ぎる話でしたかね?」
「どうせ俺は単細胞だよ」
残った氷をグラスの中でくるくる回しながら赤星はむくれた。

「そういいなさんな。旦那だってちゃんと成長してるって、さっきの見てよくわかりましたよ。昔のお前さんだったらとっくに、ぶち切れてたとこだ」
「はは‥‥。まったくだ。でも、人間なんて一人じゃなんもできねえって、わかってきたからな」
赤星が小さくなった氷と水をざっと口に流し込んでグラスを手すりに置いた。一歩踏み出して、くるりと身体の向きを変え、まっすぐに黒羽を見つめた。

「俺には、やっぱ‥‥黄龍の抱えてる"苦しみ"みたいなもんがホントのとこでわからねえ‥‥。でも‥‥初めて会ったあの日、あいつはとにかく弱い人達のために怒ってた。自分がやられちまうってわかってたのに、それでもあの人達をほっておけなかったんだ。それがわかった時、俺は決心できた。イエロースーツはこいつに任せようって」
「それで‥‥?」
「あいつが俺を信じらんねーって言っても、俺は黄龍を信じる。それで何か起こっても、それは俺の責任だ」

黒羽はくいと顎をしゃくって微笑むと、気持ち下目使いに赤星を見た。
「おせっかいな旦那にしては悪くない結論だ」
ふわりと笑った赤星が大きく伸びをして、少し腫れた左頬を撫でた。
「しっかし、黄龍の独り相撲ってんなら、殴られるんじゃなかったな」
「おや、そのくらいじゃ、隊長さんは、なんともないんじゃなかったんですかい?」

「でもさ、これ、しばらく醤油とかしみるぜ?」
黒羽は思わず吹き出した。
「不肖の後輩が世話になったお詫びに何かうまいものでも奢りますよ」
「ほんとか?」
「寿司なんて、いかがです?」

赤星が、思いっきりのふくれっ面を黒羽に向けた。

===***===

「わっ‥‥」
「あ‥‥! ごめんっ だいじょうぶかよ?」
ポケットに手を入れうつむいて早足で歩いていた長身に、公園から飛び出してきた子供が思い切りぶつかって転んだ。黄龍は慌てて膝をつき、少年を助け起こした。

「‥‥ってー! もう、おまえっ、気をつけろよっ」
「わりー。ちょっと考え事してたからさー。でーも、お前もいきなり飛び出すとあぶねーぜ?」
「かーちゃんと約束した時間に間に合わねーよっ オトナの方が気を付けろよなっ」
子供特有の口の悪さでそう叫ぶと、少年は走り去った。黄龍は苦笑してその後ろ姿を見送る。何とはなしに、彼が駆け下りてきた石段を登った。

薄暮の中で二人の子どもがサッカーボールを蹴り合っていた。小学1年生ぐらいか。ずいぶん寒くなってきたというのに二人とも半ズボン。少し勢いのあるボールだったら押されてしまいそうな細い脚なのに、それでもなかなか巧みなボールさばきだ。

そのうち背の高い方の子が、放り出してあったランドセルを持ち上げて背負った。ボールを抱えてもう一人の子に手を振り、黄龍の脇を走り抜ける。ボールはその子のものだったらしい。残った少年は、今度は三角や丸の穴のあいた小さな壁に石をぶつけはじめた。穴を抜くつもりらしいが、なかなかうまくはいかない。とはいえ、反対側を誰かが通ったら危ないことになるだろう。

黄龍はそれとなく子どもに近づいた。
「よ、坊主。石はやめときなって。向こう側に人がいたらケガするぜ?」
子どもはまん丸い眼で黄龍を見た。少し後ずさりして黙っている。まあ、見知らぬオトナには気をつけろというところだろう。それでも逃げていこうとはしなかった。さきほどボールで遊んでいた時、その子供のポケットからストラップ付きのカギが飛び出したのに、黄龍は気付いていた。

空っぽの家に、帰りたくねーんだな、こいつ‥‥。

黄龍は足元に転がっていた空き缶を拾った。何度か手の中でもてあそぶように放り上げると、いきなりをそれを横投げでしゅっと投げる。長い腕が優美なほどにしなうと、穴あき壁のずっと後ろ、15mは離れた位置にあるゴミ箱に、小振りのコーヒーの空き缶が見事に入った。

「すっげーっ!! お兄ちゃん、もしかして、野球の選手!?」
「ちょっと違うけどな。でもオマエのサッカーもなかなかうまかったじゃん? つい見とれちゃったぜ?」
「ホント? ボクさ、来年になったらサッカークラブに入れるんだ! おかあさんが、来年になったらヨユウができるって言ってたから!」
「へー。サイコーじゃん。それより、お前、家、どこさ? もう少しで、暗くなっちまうぜ」
「平気だよ。すぐ近くなんだ、ボクの家‥‥。それにおかあさん、帰り、遅いし‥‥」

黄龍は膝に手をつくと、その長身を折って子供の顔を見た。
「でもな、もう帰らねーとまずいぜ? お袋さん、オマエが家でちゃんとしてるって思うから、がんばれるんだって。暗くなっても外にいるかもって思ったら心配で仕事できねーっしょ?」
「そうなの? おかあさん、仕事しててもボクのこと考えてるかな‥‥」
「コドモのことでも考えてなきゃアホらしくて仕事なんてやってらんないの。オトナは大変なんよ?」

黄龍はおどけた顔で、子供の鼻をつついた。
「だから、もう、帰れ。な?」

「そっかー。そうなんだ‥‥。わかった。帰るよ! お兄ちゃん、バイバイ!」
「サッカー、がんばんなよ!」
黄龍は上半身を起こし、左手を腰にあてたまま、微笑んで右手を軽く上げた。子供は何度か振り返って手を振ると、小走りに公園を出ていった。

子供が完全に見えなくなってしまうと、黄龍の表情が一転してけだるげなものに変わった。煙草を取り出して火をつけ、久しぶりに思い切り吸い込む。ぴりぴりする粘っこいものが、喉や胸にまとわりつくようで、今の自分にひどく似合っているように思った。隅のベンチにどっかりと座る。灰皿に灰を落とすと、長い足を投げ出すようにして背もたれに身体を預けた。

自分も子供の頃、家に帰りたくなくて、こんな公園でよく一人で時間をつぶしたものだった。家が空っぽだったわけではない。母親と生まれたばかりの小さな弟が待っていた。ただしそれは、まったく血の繋がらない義母と、父だけが同じ義弟‥‥。誰もいない方が、まだ帰りやすかったかもしれなかった。
母と別れて黄龍家に戻った父が再婚した相手。客観的に見れば実にできた人だとは思う。前妻である母に対して揶揄するようなところは態度のかけらにすらなかった。もちろん母が黄龍家に顔を出すことは一切なかったから、二人の母親はお互い会ったことはなかった。

唐突にそして強引に、レールを走る牢屋に押し込められて、何を叫ぼうが誰も応えてくれなかったあの頃‥‥。憤り、悔しさ、怒り、悲しみ、孤独‥‥。激しいそれらの感情は常に自分とともにあって、きっかけがあれば鮮やかに現出してしまう。まるでタイムマシンで戻ったかのように‥‥。

虐げられた者、怯えた者、歯がみする者、嘆く者‥‥。
そんな連中の感情がダイレクトに流れ込んでくる‥‥。彼らは皆、過去の自分自身だ。
力や後ろ盾にものを言わせて他人から奪う者、他人をねじ伏せる者、傷つける者‥‥。
なんとかしなければ、ヤツらを‥‥。でなければ‥‥‥‥‥‥。


幼い者がそれを保護する立場の者を憎んだ時、相矛盾する感情の持って行き場を子供は知らない。
そして時に憎悪は、その矛先を失い、ただそれだけで存在することさえ可能だった。



‥‥‥‥ふー‥‥。‥‥疲れる‥‥。
‥‥ったく‥‥今日はなんだってんだよ‥‥。

黄龍は心の中で悪態をついた。ばさりと長髪を波打たせて上半身を起こす。吸わぬまま灰が伸びていた吸い差しを、そのまま灰皿にねじ込んだ。と、視界の中に、誰かの足が見えた。

「やっぱり、今朝の兄さんか‥‥」
「あ、あんた‥‥たしか‥‥鷹山さん‥‥?」
こんな気持ちの時に赤星の知り合いになど会いたくなかった。体よく何か言ってその場を去ろうとしたが、鷹山は黄龍にその機を与えず、ニコニコと隣に座り込んで来た。
「さっきの子供の扱い、あっぱれじゃったの! 良いものを見せてもらったよ」
まさかあんな所を見られていたとは思わなかった。黄龍は思わず身体を捻ってそっぽを向いた。老人はただの照れと受け取ったのか、気にもせずに、さも感心したような声で喋り続けた。

「やっぱりお前さん、リュウ坊の見立て通りのお人のようじゃな」
「‥‥はん‥‥。どうせロクでもない見立てっしょ。ひねくれたハンパもんってさ‥‥」
黄龍が足元の地面を見つめて言う。鷹山は眼鏡越しにつと目を見開いた。が、直ぐに溶けるような笑みを浮かべる。
「おお、ひねくれ者というのも確かに言っておった。だが、竜太はお前さんを相当に気に入っておるようじゃな。グローブの型合わせの間中、お前さんの事をえらく楽しそうに喋っておったよ」

赤星はいったい自分の何を気に入っているのか‥‥。

あの日、あれだけの嘲笑をぶつけたにもかかわらず、なぜ赤星は自分をオズベースに抱え込んだのだろう。黒羽への信頼の裏返しなのだろうが、それにしてもどこか釈然としないものがあった。

確かに、今風の若者の体型に合わせて作られたイエロースーツは自分にぴったりだ。そして射撃の腕前を買われたのもわからないでもない。中学に入る以前からその魅力にとりつかれ、熱心に腕を磨き、多くの大会でトップクラスの成績を残してきた。ライフルでの実績はそのままにエアーピストル四段を取得。競技用の装薬ピストル所持者は日本でもそうはいない。未だに自室で据銃の訓練は欠かさないし、オズベースの地下に射撃場があることが何はさておいても嬉しかったのも事実だ。

それでも総合的に考えたら、もう少しマシな人選はあったような気がする‥‥。

正義は‥‥力や技術ではなく‥‥"想い"なのだから‥‥。

世の中を護りたいという赤星のまっすぐな想い。非道を決して許せないという黒羽の秘めた決意。そんな二人を一心に信じ、夢中になって事に当たっていく輝の純粋さ‥‥。そして、両親の無念を晴らしたいという瑠衣の強い願い‥‥。

しかし‥‥俺は‥‥?

「ア‥‥アイツ‥‥。俺のこと、なんて言ってたの‥‥かな‥‥」
視線を逸らしたまま、つぶやくように言った。
「ん? とにかく優しいヤツだということかの。人の心の痛みを、俺なんかよりずっとわかってやれるヤツだ。寂しい思いをして育ってきたろうに、それでもあれだけ人を思い遣れるのは、きっと本当に根っこから優しいんだと、しきりに言っておった」

黄龍は少し驚いた。確かにガールフレンドにはよく優しいと言われたものだ。だがそれは一種のゲームだった。女が微妙な位置に隠しておく謎かけに、気づかぬフリをしつつ最高のタイミングで応えてやる。それで、相手と甘くてちょっぴりスリリングなシーンが演出できれば、それでいい‥‥。

自分が優しいはずはない。いつだって自分のためだけに動いてきた。誰かに何か期待しても裏切られるだけだし、期待されるのもバカらしい。他人を把握する必要はある。だが関係はできるだけ希薄がいい。優しさなんてジャマなだけだ。‥‥そうやって‥‥そうやって生きてきたはずだ‥‥。

優しいなどと‥‥。‥‥自分をこの先、どう考えたらいいか‥‥わからなくなる‥‥。

「勝手に決めないでくれる? 俺はそんな人間じゃねーよ‥‥」
黄龍はにこやかな鷹山の視線から顔を背け、不機嫌そうな声で続けた。
「だいたいあんな優等生のおぼっちゃんに、俺の何がわかるってんだよ‥‥」

鷹山がいきなりくっくっと喉の奥で笑い出した。
「優等生‥‥? こりゃあ、また‥‥! リュウ坊を評して優等生と言った人間など、ウワサでも聞いたことがなかったの!」
黄龍は思わず鷹山老の顔を見た。鷹山は珍しいものでも見るように黄龍の目を見返す。

「竜太は小さい時から頑固でな。ま、要は親父譲りなんじゃが。自分で納得できるまでは絶対にウンと言わない。自分は悪くないと言うとどんな罰をくらっても折れない。猛烈な親父殿が手を焼くほどじゃったから、もう教師どもの手に負えるはずがなくてな。高校も何度か退学しそうになったくらいで‥‥。優等生というのとは大分違うと思うが?」

「‥‥だって、今のアイツは、自分の身可愛さにお偉いさんにヘイコラするようなヤツで‥‥‥」
「ほう‥‥! リュウ坊にも、そんな所が出てきたか。だがな、兄さん‥‥。竜太に限って保身でそんなことをするとは思えんな。あいつがそうしたのなら何か理由があったんじゃろ」
「‥‥‥‥あんたも‥‥‥‥、えらくアイツのこと買ってるんだな‥‥」

鷹山は肩をすくめると空を仰いだ。グレーの濃くなってきた空に街灯が妙に温かい印象だった。
「‥‥竜太はな、こと拳に関しては決して兄の竜水を超えることはできまいて。だが生き様という意味ではなかなかの器を持っておるよ。竜水はもちろん、今では親父殿も認めておる。まあ、あの親父殿のことじゃ。口が裂けても本人にそんなことは言わんじゃろうがの‥‥」
本当にあの父子は困ったものじゃ‥‥、と鷹山は思い出したように笑った。

一方の黄龍は自嘲的な笑みを浮かべる。
「わかんねーな‥‥。そんなお偉いお人ってんなら、俺様なんか構うこたねーんだよ‥‥」

鷹山がすっと背筋を伸ばすと上半身を捻り、身体ごと黄龍の方を向いた。
眼鏡の縁を街灯の光がきらりと撫でた。

「兄さん‥‥こういう言葉を知っとるかな?
 人には4つの自分がある。
 1つ目は他人も自分も知っている自分。
 2つ目は他人が気づかなくて自分だけが知っている自分。
 3つ目は自分が気づかなくて他人だけが知っている自分。
 4つ目は他人も自分も知らない自分‥‥」

いきなり禅問答のような言葉をぶつけられて、黄龍はきょとんと鷹山を見返した。

「誰かが優しいと感じたのなら、それもまたお前さんの真実の姿じゃ。お前さん自身がどれほど否定しようがの。竜太は意識はしとらんだろうが、あいつにとって一番大事なのが、その優しさなんじゃよ」


2002/1/21

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