第16話 夢見る蝶
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 彼女はよく夢を見る。

 夢を見るという事象は、人にとって何の益も害ももたらさない記憶の気まぐれに過ぎない。それは儚い幻だ。現実は現実、夢は夢。永遠に交わることはない。2つの直線は次元と次元の如く永遠の平行線の上にある。薄っぺらい紙を二枚重ねたところで上の紙は下の紙を通り抜ける事は無い。それは世界の理であり、絶対だった。

 しかし、絶対である筈の世界にさえ、不確定要素は存在する。

「・・・・・・うまく通り抜けられたようね。・・・・・・ち、スプリガンと鉢合わせるなんて・・・・・・私もまだまだ、未熟だわ」
 時は二ヶ月近く遡る。
 世界に逆らい存在する、次元と次元を繋ぐ回廊より降り立った彼女は呟いた。降りる時刻はまだ暗い朝方を選んだ。暗く、且つ人の一番少ない時間帯だ。
 以前にも何度か降りたことのある三次元だったが、やはり身体が慣れるまでには相当の時間を要しそうだった。もっとも彼女の姿形は人間に限りなく近い。他の連中より遥かにマシな筈だ。そう思って、彼女は我慢することにした。
 彼女の部隊は諜報の役割を担っていた。三次元世界の人間の調査は一通り済んでいる。どんな生活を持ち、社会的ルールを持ち、価値観を持っているか。今回はそれらの知識が役に立ちそうだった。意味無く人間を殺さずとも良い。 

(わたしはあの方の期待に応えられれば、それでいい)

 戦力を必要以上に消耗しないためにも、自身の姿は非常に都合が良かった。三次元社会に紛れ込める。何もこれから倒そうとしている『敵』に対するカモフラージュだけではない。それは政敵である仲間達から妨害を受けないためでもあった。
 社会的に存在を認められる為には2,3面倒な作業があったが、彼女にとってはさして難しいことでもなかった。
 人間にはあり得ない跳躍力で、彼女は跳んだ。






 ある日、学校から帰って来た桜木瑠衣は、想像を絶するその張り紙を目撃した。

 アルバイト募集のお知らせ(急募)
 私達と楽しく、明るい職場を作りませんか?
 委細面談。
  喫茶『森の小路』

「バイトおっ!?」
 喫茶店出入り口の正面で突然叫んだ少女に、道行く人々の視線が集中した。



「輝、その皿こっちな。小さい皿は隣に置いたほうがいい。スペース取れるだろ」
「じゃ、コップ類は?棚の下の方の、取り易いトコにあった方がいいでしょ。落っことすの怖いし」
「そうだなー・・・・・・そこには消耗品置きたいんだけどな」

 赤星と輝が笑い合いながら戸棚の整理をしている。全くタイプの違う二人の男性だったが、仲が良く、まるで兄弟のように見えた。輝はぱたぱたとそこら中を駆けずり回って青年の補佐をしていた。赤星は、それに較べれば幾分落ち着いた所作で大皿を戸棚にしまい込んでいる。

 からんからんからーん!
 突然、美しい銀のベル同士がぶつかり大きな音を立てた。
「ああ、瑠衣か。お帰り」
 赤星は後ろを振り返り、そこに立っているのが良く知った顔であることを認める。輝は元気よく彼女に挨拶した。
「瑠衣ちゃん!おっ帰りっ!奥の冷蔵庫にババロアあるよっ!」
「赤星さん・・・・・・!」
 扉を勢い良く開けて入って来た瑠衣の瞳は真剣そのものだった。

「・・・・・・どうしたの?瑠衣ちゃん」
 輝の問いには答えず、彼女は赤星の前に立った。赤星は目を丸くする。
「どうしたんだ、瑠衣?」
「あたし、役立たずですか?」
「は?」
 想像もしていなかった台詞に、赤星の皿を積んでいた手が止まる。瑠衣の瞳には涙が浮かんでいた。輝がギョッとしてコップを取り落としそうになる。

「る、瑠衣ちゃんっ!?どうしたのいきなりっ!?」
「ちょ・・・・・・ちょっと待て、瑠衣っ!なんでそうなるんだ!?」
 赤星は慌てて手を横に振って否定する。しかし瑠衣はまるきり応じなかった。ぎゅ、と胸の前で両手を握り締める。
「そうですよね・・・・・・あたしなんかとても赤星さんの役に立ってませんよね・・・・・・」
 ふっと瞳をそらす瑠衣。
「ごめんなさい・・・・・・それならはっきり言ってくれれば・・・・・・!私だって潔く身を引いて」
「マーースーーターーーーっっ!!!どーいうことっ!?」

 『森の小路』一のフェミニスト・輝が黙って聞き流す筈は無かった。彼の睫の長い目が一気に険しくなる。掴み掛からんばかりの勢いで詰め寄られ、赤星は進退極まった。
「・・・・・・だああああっ!だからどーしてそーなるんだっ!!!瑠衣、いったい何の事かちゃんと・・・・・・」
 と、その声が瑠衣の表情を見た途端ぴたりと止まる。
「・・・・・・瑠衣?」
「何の事、って」
 いつの間にか、彼女はけろりとした瞳で赤星を見ていた。
「どうしてバイトなんて募集してるんですか?ってことなんだけど」
 自分が只からかわれていただけだと気付くまでに、彼は10秒かかった。






 夢を見るということが他の人間にとってどれだけのものか、彼女は知らない。ただ、彼女にとって、夢とは紛れもなく真実を含むものだということだ。
 彼女の中で、夢と現は交わっていた。次元回廊のように。

 耳が痛い。両の指にはめた大きな指輪を無意識にいじって、瞳だけで周囲を見回す。

 この耳鳴りには数日間悩まされた。彼女の耳はしばらくの間この次元の音に馴染まなかった。
 暗黒次元の生物の可聴域は3次元世界の生物が発する音に対してずれていた。暗黒次元の方が僅かに低い。発される声にしても同様であるから、暗黒次元では高い方である彼女の声も、こちらの世界ではアルト程度に聞こえる筈だった。また、常用されている音……声も含め……の質が全く異なった。そしてそれを聞き取れるように進化した耳もまた、拾い取れる音の質が違った。3次元世界の人間の発する声の中で、個人を判断できる『声の中の声』が、暗黒次元の人間には全く聞こえない。言葉としては聞き取れるが声での個人の判別が不可能なのである。死角から知り合いに声を掛けられた時咄嗟に反応できない等、大したことではないが少々不都合はあった。今ではほぼ慣れたが、未だに人混みの中は辛い。
 だから、彼女は人混みが嫌いだった。





 その晩、オズベースの一室に大きな笑い声が響き渡った。
「・・・・・・そんなに笑わなくったっていいだろ、黒羽!」
「いや・・・・・・悪い悪い。しかしこんなに笑ったのは久しぶりだ」
 むすっとした赤星の抗議に、黒場は笑い顔を隠すために帽子のつばをくいと引き下げた。しかし隠し切れない口元はいまだに笑っている。
「瑠衣ちゃん、見かけによらずなかなかやるもんだ。悪女の才能があるぜ」
「えへへ。時々演劇部に助っ人頼まれるの。ちょっとしたイタズラのつもりだったんだけど・・・・・・ごめんね、赤星さん、輝さん」
「オレはリーダーより早く気付いたもん!」
 輝がむきになって抗議する。赤星も無邪気に謝られては返す言葉を持たない。こんな話、黄龍に聞かれたら黒羽以上に爆笑されるな、と苦笑いして、彼は説明をはじめた。

 黄龍は現在佐原探偵事務所に出向いている。黒羽も黄龍も、手が空いた時は出来る限り探偵業に戻るようにしている。佐原所長の意向もあったが、何より彼らにとってそこはもうひとつの『帰る場所』でもあった。一般から参加している彼らがそうしたいと言うのだから、赤星には何も言うことは無かった。「あんまり無理するなよ」と声を掛けるのがせいぜいである。

「俺と黒羽で話し合って決めたんだけどな、俺達、有事の時は5人一気に出て行かなくちゃならないだろ?だから『森の小路』が開店中の時間って、すっごく困る。まさかその時だけ店閉めて行くわけにいかないだろ?特にお客さんがいる時にはさ」
 戦闘中は彼らだけでなく科学者達も手一杯だった。何しろ戦闘データを取るだけでも膨大な量になる。現在このベースに詰めている科学者の数では手が足りないくらいだった。
『外国から科学者を補充って出来ないの?』
 以前輝が質問してきた一言である。本部側も、これは勿論考えないではなかった。しかし、現場で交わされる情報はたとえ口頭であれ非常に複雑なものになる。一瞬でも無駄に出来ない戦闘中のデータ採取時に、まさか通訳を挟むわけにもいかない。チームを組んで作業している科学者達にとって、何より大切なのはチームワークと意思の疎通だった。日本語の文章形態が英語と大きく異なっていることが、彼らにとって不運だった。現在のOZに日本人以外で日本語を完璧に扱える科学者は存在していないのである。

「細かいところは省くけど、戦闘中はここに余分な人手ってのは皆無なんだ。それでどうしても、俺達が居ない間店を見ててくれる人間が一人でいい、欲しいんだよ」
「ふーん」
「その人にはOZの事は内緒なんでしょ?」
「勿論。口滑らせないように気をつけてくれよ、瑠衣」
「はい!赤星さん」
「張り紙をしてあるのは今は店の入り口一箇所だけだ。だが、誰も来ないようだったらもう少し他の方法も考えなきゃならん」
「ああ、わかってる」
 赤星は黒羽に頷いた。






 子供にとって、夢は恐怖の対象だった。子供の夢は過去であり未来だった。違えられることはない。子供の夢は過去そのものであり、また未来をも決定した。故に、子供にとって夢とは恐怖であり、忌むべきものだった。
 子供にとってどうであれ、子供の夢には力があった。そしてその力は、上層部に求められたところで何の不思議もないものだった。
 軍属となったのは十の時だ。しかし十の子供が軍隊にすぐに馴染める筈もない。力を持て余し、ある日子供は自分を引き抜いた男の元へ参じた。
 しかし男は子供にこう言った。
「お前の力はお前のもの。お前の手足と違い無い。己が手足を恐れる人間が何処にいる?」
 その日から、子供にとって夢とは、忌むべきものでなくなった。





 赤星は相変わらず客の入らないカウンターに立ち、暇に飽かせてグラスを磨きながらぼーっと考え事をしていた。
「来るかなあ……。バイト」
『雇うなら絶対女の子!!』という黄龍の主張はさておいて、できるならこの一週間以内(怪人の出現する割合がおよそ週一なのだ)に、表の張り紙だけで済ませてしまいたいところだった。チラシ配り以外の広告方法ではまとまったお金がかかってしまう。かといってのんびり待つには時間がない。時給も決して高い金額を提示しているわけではないので、はっきり言って近いうち、決断が必要になりそうな気配ではあった。

 カモフラージュの喫茶店のマスターとはいえ意外に楽ではないことを痛感する。一応の採算度外視とは言え帳簿は合わない(誰かが領収書を忘れているのだろう)。食材は捌けない(微妙に残って勿体ない)。店員のスケジュールはばらばらだし(人数だけはいるのに)、思った通りに菓子が焼けない時もある(赤星だってたまには焼く)。クリスマス等の忙しい時期に本来の仕事が重なることも珍しくない。勿論この仕事が嫌いなわけではない。ただ、ひしひしと『なかなか上手くいかないもんだなあ』というこの世の理を感じるのである。
 赤星は目を閉じ、ちょっとだけ空を仰いだ。
(せめて今回の件はスムーズに行きますように)

 かくして神は彼の願いを聞き届けるのである。ただし、更なる運命を彼等の元に引き連れて。





 からんからん、とベルが鳴った。澄んだ音色を背にして、その女性は『森の小路』に入ってきた。コートを脱ぎながら店内を見回している。客の少ない時間帯の客に、赤星は食器を拭く手を止めて声を掛けた。
「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」
「はい」
 女性がこちらを向いた。つい先程まで暇で暇でたまらない、という顔をしていた黄龍が目を真ん丸く見開いている。

 切れ長だが大きな瞳は神秘的な色をしている。痩躯は決して低くない。有望より少し低いくらいか、と赤星は見当をつけた。信じられないほど黒い髪に合わせるように、服も上下暗めの色で統一している。なのに不思議に重い感じがしなかった。殆ど白に近い、色素の薄い肌のせいだろうか。

「申し訳ありませんが、わたしは客ではありません」
 どこか無表情な瞳がこちらを向いた。
「表の張り紙を拝見しました。雇っていただけますか」
「ああ・・・・・・!アルバイト希望の方ですか」
 これには赤星も驚いた。張り紙を出してから一週間ジャスト。今日が駄目ならチラシを刷ろう、と覚悟していたところである。しかも来たのは有望にも負けないくらいの美人。この店には美女ばかり集まる法則でもあるのだろうか?瑠衣とて充分に標準以上の容姿を持っている。(これじゃ俺みたいな店長は釣り合わねーな)と苦笑する。

「何か?」
「いや。申し遅れました。俺、店長の赤星といいます。失礼ですがおいくつですか?それから職業と、出られる曜日を」
 彼女の死角からしきりに『GO』サインを出している黄龍を無視して礼儀正しく応じる。
「22歳、大学生です。出られる曜日は・・・・・・」
 さらさらと回答する。面接でこれだけ滞り無く会話できる人間も珍しい。赤星は内心感嘆した。彼女、どうやら相当肝が据わっているらしい。
「じゃ、取り敢えず奥へ……お名前は?」
 その台詞に、黄龍が呆れ顔で口を出す。
「赤星さん……その質問、フツー一番最初じゃん?」
「あ。そうか」
「不現理絵です」
「フゲン?」
 珍しい名字に瞬きした赤星に、女性は目を細めて言った。
「うつつにあらず・・・・・・不現。私の名前です」



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