第13話 暁 光
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昨夜から訪れた寒気団と空に敷き詰められた雲のおかげで昨日とはうってかわって冷え込んだ。それでも氷川神社の境内は沢山の参拝客で賑わっている。孫から祖父母まで三代で歩いていく家族連れ。破魔矢を持ったあでやかな振り袖姿。寒いことすら幸せそうに身を寄せ合う恋人たち‥‥。

参道を、境内に向かう人の流れに逆らうように一人の少女が歩いてゆく。何人かの人が思わず振り返ったのは、この寒空にあまりの軽装だったためだろうか。華奢な体つきにまとわるようなプルオーバーに黒いスリムパンツ。大人びて知的な顔立ちは十分に美しいと言えるだろう。軽やかにシャギーの入った髪が、意志の強そうな細い顎を縁取る。つややかな黒髪と冴え冴えと冷たい瞳が、光の加減で紫を帯びるのが不思議な印象だった。

彼女には名前がない。

半月ほど前にこの国に‥‥、いや、この次元に来たばかりなのだ。

レム睡眠時学習によって、地球人、主に日本人の生態、生活等の情報は大量にインプットされている。だが彼女は科学者どもの作り上げた"知識"だけで満足するタイプではなかった。ターゲットに潜入し、実地での情報に重きを置く。その姿勢と成果が、若年でありながら今の地位に彼女を押し上げた理由のひとつであった。

長く続く参道を見通し、人間の多さに少しうんざりしかけた時だった。踏まれそうになりながら一直線に走ってくる茶色の固まりがあった。脳の記憶野が活性化する。

「イヌ」‥‥「イヌのコドモ」

"家畜"というものは暗黒次元にもいるが、"ペット"というものの概念がどうもよくわからない。だが、この"イヌ"というのは、人間の"ペット"になる代表的な生物らしい。

よく見てみようと思ってしゃがみ込んだ。赤い首輪に紐がついていてそれを引きずっている。なぜかその生き物は、一直線に走ってきて彼女の前で止まった。シッポをちぎれんばかりに振っている。瞳孔が拡散して輝いていた。本来跳ねる生き物ではないはずだが、その場で跳ねるような行動を見せるので、彼女は首をかしげた。

「チョビーッ」
今度は人間のコドモが駆け寄ってきた。男と女のコドモだ。彼らは彼女の前で立ち止まり、"イヌ"をつかまえた。

「お姉さん、どうもありがとう!」男のコドモが彼女の顔を見て言った。
「ありがとう‥‥?」
「うん。妹がチョビに引っ張られて、リード、離しちゃったんだ。捕まえてくれてありがとね!」

ありがとうというのは感謝を表現する言葉だった。"感謝"というのも、いまひとつピンとこない概念だった。忠誠と任務の成功、それに対する報賞や昇格。そういうものともまた少し違うようだ。

「なぜ、ありがとう、なの?」
「だって、チョビは大事な家族だもん! 居なくなっちゃったりしたらすごく悲しいもの! お姉さんも犬が好きなら、わかるでしょ? とにかくホントにありがとね!」
男のコドモは女のコドモの手と、イヌの紐をしっかり持つと、もう一度頭を下げて、境内の方に歩いていった。

イヌと人間は違う種類の生き物だから、家族になるわけはない。
そのうえ、いなくなると、悲しいなどと‥‥。
自分の親は、自分がいなくなっても、ぜったいそんな風には思わないだろう。

不思議な生き物だ。三次元の人間というものは‥‥。
もっと色々調べてみないと‥‥。

アラクネーはそう思った。


===***===

「お前って、ホント器用! 食うのもったいないよ、これ!」
雑煮に入れようとした人参と蒲鉾が綺麗に飾り切りされている。箸でつまみ上げてしみじみと見つめた赤星がそう言った。
「へへっ 小松菜ももう結んであるよっ」輝が得意そうに言う。
「餅もそろそろ焼けるぜ〜?」黄龍の持つ箸先で、焦げ目のついた餅がぶわんとちょうどよくふくらんでくる。

意外と古風な輝が、三が日は男が台所仕事をするんだと言って有望と瑠衣を追い出してしまったのでこういうことになっている。「森の小路」の厨房は葉隠の趣味に合わせ、喫茶店のものとは思えないほど広くて設備がいい。4、5人で動き回っても狭い感じがしない。そして、ここでは葉隠を筆頭に男連中が厨房に入るのはごく普通の光景だった、赤星は母親がいなかった為に、黄龍も一人暮らしが長かったので、そして輝は妹たちにアブナイことをさせたくない一心で‥‥。

「でも‥‥やっぱ、黒羽さんにはこんなことさせちゃいけないよねっ?」
「テルの期待裏切って悪いけど、佐原探偵事務所で年越し蕎麦用意すんの、黒羽の役目よ」
「うそでしょ?」
ヒーローが台所で蕎麦を茹でてる図なんてあまり想像したくない輝だった。
「あいつ‥‥きっとどんなうまい蕎麦食っても‥‥」
赤星がすっとうつむいて目を閉じる。額の前で右手の人差し指と中指を揃えてピンと立て、メトロノームの様に左右に振ると黒羽のしゃべり方をマネした。
「『あんたの蕎麦は、日本じゃあ、二番目だ』って言いそうだもんな‥‥って、いてっ!」

いきなりギターのネックで後ろからこづかれた赤星が頭を押さえて振り向いた。
「ふざけてないで、早く用意しろって、親父さんのお達しですよ?」
「あの、くそ親父! 昔から食うばっかなんだからなぁ!」
「でも、なんのかんの言って、赤星さん、親父さん来てっから楽しそうだぜ?」
黄龍が笑う。
「まあな」
赤星が黄龍に向ける笑顔にはなんの屈託もなかった。

黒羽は入り口に寄りかかって輝に微笑みかけた。
「なあ、坊や、ヒーローは、メシは食わなくても、うまい料理は作れなきゃならん。わかるか?」
「え? そういうもんなの?」
「当然だ」
黒羽の短い一言には、妙に説得力がある。それがどんなシチュエーションであってもだ。考え込んでしまった輝を見て、赤星と黄龍は笑いをこらえた。

8つの大ぶりな椀に餅や具を並べて出汁を入れていく。餅がちょっとだけじゅっという音を立てるのが楽しい。
「洵さんもいられたらよかったのにね」
朝起きて、洵がいないことを知って、輝はえらくがっかりした様子だった。
「しょうがないっしょ。正月だって具合の悪くなるヤツは居るし、入院患者だっているし‥‥。お医者のセンセも休み無しってとこでは、俺様たちと同じってね」
黄龍が諭すようにそう言った。

赤星は昨夜のことを思い浮かべた。マルチな医者になりたいと瞳を輝かせた洵、飲み過ぎたかなと苦しげに笑った洵。そして‥‥お父さんとは呼べないという、あの吐き出すような言葉‥‥。

「これでよし。さ、メシにしよ!」
哀しみに満ちたあの声を振り払うようにそう言うと、赤星は大きな盆を持ち上げた。


===***===

洵は西都大学付属病院の心臓血管外科病棟3階の手術室に来ていた。医局長から予備電源が正常にはいるかどうか確認しておいてくれと言われていたためだ。

新年4日に行われるオペは先天性大動脈弁狭窄症の人工弁置換手術だった。この病は、生まれつき心臓左心室と大動脈の間にある大動脈弁の一部が癒着して開きが悪くなる先天性心臓弁膜症の一つである。35歳の男性クランケは、近年、頻繁な動悸や胸痛が訴えるようになり、失神をきっかけに西都病院に入院した。検査の結果外科手術が必要なことが分かり、本人の希望もあって、バルーンによる弁の拡張ではなく、人工弁置換手術を行うことになった。

洵が、このオペに人一倍関心を示したのは、心臓血管外科の権威である斎藤医局長が今回の執刀医であることだけではなかった。

大学の医局に入り、仕事がタイトになってきた頃から、明確に胸部の痛みを自覚するようになった。そして精密検査の結果がまさに先天性大動脈弁狭窄症だったのだ。以前からなんとはない息苦しさや動悸を感じることはよくあったし、医学部で勉強をするうちに自分でももしかしてとは思っていた。
先天性二尖弁は0.1%程度の確率で起こる症例であり、男性の方がかかる確率が高い。心不全等の重い症状が発症してくるのは通常30代後半〜40歳代。今日では、人工弁の耐久性も高くなっておりまた術式も確立してきたため、注意して観察し早めに手術を行えば、生き延びる確率は高い。もちろんのほほんとしていられる話ではないが、落ち込むほど深刻になってもいなかった。

ただ洵は、この話を、葉隠やその周囲の人間の誰にも言っていなかった。大人になって無くなってきたとはいえ、幼少期から原因不明の発熱を頻繁に起こすという身体的トラブル抱えていて、引き取られてからこっち、ずいぶん迷惑をかけてきた。これ以上養父に心配をかけたくなかった。
日頃から、水分、塩分の摂取をきちんと調整し、急激な温度変化を避け、急な労作をかけないように注意して‥‥。だが、昨夜のようにちょっと調子に乗ると、あんなことになってしまう。

今回のオペを自分の参考にしようと言うわけではないが、それでも同じ病と言われるとどうしても気になってしまうのは仕方のないことだったろう。

洵は窓のない手術室に入ると照明を付けた。部屋中が光に満ちる。そのまま同じ階にある配電室に行くと手術室のブレーカーを落とす。瞬断ですぐに予備電源に切り替わるはず‥‥だった‥‥。
「あっれぇ?」
暗い手術室の前に間延びした声が響く。
「困ったなぁ‥‥」
補助電源だから、T電力ではなくごく一般の会社の設備だ。正月2日できちんとメンテナンスしてくれるんだろうか。

以前、その会社の技師の説明を受けたことがあった。各病棟の若い連中が何かの時のために聞きに行かされたのだ。補助電源設備は付属病院と医学部の境の配電施設の一角の防災棟の地下にあった。とにかくちょっと現場を見て、それから会社に電話してみようと思った。


宿直室に戻るとコートを取って、本部棟に行く。受付から事務室の中を覗いた。
「あら、洵先生、おめでとうございます。お正月からお疲れさまですね」
ベテラン看護婦の宮野が明るく挨拶してくれる。
「あ、宮野さんが当番だったんですね! 今年もよろしくお願いします」

この病院で、洵を孫先生と呼ぶ人はあまりいない。患者の前では一応孫先生から始まるのだが、だいたい最後には患者でさえ洵先生と呼ぶようになってしまう。そして洵はどの医局の看護婦にもウケがよかった。年下の看護婦に対しても決して横柄な態度はとらないし、何より一度見ただけで完璧にその名前やクセを覚えてしまう。看護婦に対して尊大な態度を取る医者も多い中で、洵の株が上がるのは当然といえば当然だった。
洵は宮野に事情を話し、防災棟の鍵を受け取った。目的の建物はここから200Mほど離れている。見通せる位置にあるだけに、逆に寒空に嫌気がさした。

洵がたどりついたのは平屋のかなり広い建物だった。1/3は鉄筋コンクリートの建造物で、いくつかの集会室が設けられている。残りは鉄骨スレートの木造の倉庫でたくさんの区画に分けられており、書類や少し前の医学雑誌などと共に、広域避難場所にも指定されているこの西都大学医学部キャンパスの防災倉庫も兼ねていた。これらの建物の地下部分に発電設備があり、医学部や付属病院の主な設備を1週間回せるだけの燃料も備蓄されていた。

南側の鉄筋コンクリートの建物に入ると階段で地階におりる。鉄の防火扉を開けて廊下に踏み込んだ。
「えっと、モニターパネルってどこだっけー?」
降りてすぐ右手が突き当たりになっており、その鉄のドアを開けてみたらそこから先はいきなり金属の階段になっていた。また1階分ぐらい低くなっている広いフロアに誘導電動機の大きな円筒形の固まりが並び、鉄のパイプと太いケーブルが走り回っている。むき出しのコンクリートと鉄の固まりを見て、よけいに気温が低くなった感じがして、思わずドアを閉めた。パネルは確かもっと普通の部屋にあったはずだ。

一番左手奥の部屋が目指す管理室だった。パネルのたくさんのステータスランプの状態をメモにとる。
「やっぱ‥‥へんだ。どれか一個は緑になってるハズじゃなかったかなぁ‥‥?」
とにかく戻って電話しよう。心臓オペの最中に万が一停電にでもなったら目も当てられない。洵はそう思いながら管理室のドアを開けて廊下を戻った。

階段室のドアを開けようとした時だった。
激しい揺れが伝わって来た。地震かと思ったら、地上で爆発音が響き、荒い揺れで立ち上がれなくなった。動悸が激しくなり胸痛が襲ってくる。と、いきなり真上で大きな音がして、強い衝撃が洵を襲った。身体が反対側のドアに叩き付けられ、ドアノブが栗色の後頭部に激突する。

洵はそのまま、完全に意識を失った。


2002/1/9

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