荒野の月
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男は後ろ手に静かに戸を閉めると、改めてその部屋の中を見回した。
質素ではあるが使いやすい大きな机。簡単な寝台。たくさんの本が入った本棚。
鍛裂は一度"打ち"に入ると途中で放り出すことができない。予想以上に作業が長くなることも多い。家人に迷惑をかけないように、オルメカは母屋のはずれの打ち場に近い位置に、この小さな部屋を増築したのだそうだ。だから庭に出る小さな勝手口までついている。

居心地のいい部屋だった。部屋の主に一度会ってみたかったと思った。だが、もう‥‥。


男は作りつけの棚から布の包みを降ろし、寝台の上に広げた。彼がこの地で発見された際に身につけていたものだ。上着はぼろぼろでもう使い物にはならない。それでもエラドゥーラはその黒い衣類をきれいに洗ってとっておいてくれた。過去の生活を思い出すよすがになればと。
脚衣を着替えベルトを着けた男は、上着の中にくるんであったものを取り出した。一つは短めの短刀。そしてもう一つは片手に載るくらいの丸い機械の塊。部分的に焼け焦げている。

ラサは刀と丸い機械を机に置いた。椅子に座り、ペン立てから小さなナイフを取ると、肘で鞘を固定しながら、短刀の束に填め込まれた宝石をこじり始める。片手の作業のため苦労はしたが、藍色の大きな玉を1つと深紅の少し小振りなものを2つを外すことができた。大きさはあるが表面が傷だらけなので、どの程度の値がつくか分からない。それでもこれが、この家の人達へ今の彼ができる精一杯のことだった。

この短刀はかつて、ある貴族がほとんど無理矢理に贈って寄越したものだった。見た目は無意味に派手で好きになれなかったが、掴んでみると石の位置が掌に馴染んだ。腿のあたりに納めるのにちょうど良く、刃の造りも悪くなかったので携えていた。最後に三次元に行ったあの時も‥‥。


男はナイフを戻すと、紙挟みから一枚の紙を抜き取り、机の上に置いた。

真っ白な紙。

(焦らずとも良い。しばらくは真白に無垢に在れるのも一興と、ゆったりと構えなされ)

あの日クエルボはそう言って、ラサという仮の名を口にし、男はそれにすがった。

‥‥言えなかった‥‥

自分はスパイダル帝国参謀‥‥いや、"元"参謀ブラックインパルス。
三次元攻略の司令官でありながら、皇帝の計画を台無しにした男‥‥。

死のみがその無謀を贖える。だが三次元で崩壊して消えるはずだった男の躯は、最期の瞬間に、この地、アガーヴェに出現した。

ラサ、いや、ブラックインパルスは、屑鉄の塊のような丸い機械を見やった。

ディメンジョンクラッカーの試作品だ。三次元とこちらで作動させることにより、通信ができる程度の小さな次元回廊を作ることができる実験品。
あの時、次元回廊を開くために自分のラボはフル稼働していた。そしてこの躯から抜け出したあの怪物も空間を歪めていた。そんな中でこの試作品が何らかの作用をした‥‥。それ以外の理由を思いつけない。
首都クラヴァータのラボまで飛ばされなかったのは途中でこれが壊れたからか。上空高くに放り出されたり、地中に埋められた可能性もあったのか。次元の裂け目に奪われたのが右腕だけでなく、頭部や胴体だったなら‥‥。

自分が今ここにこうして生きていることが百万にひとつの奇跡であると解っても、それを単純に幸運と思えるほど、男の心は澄んでいない。



あの日皇帝がバイオアーマーと偽って男の躯に植え付けたものは、三次元に調整された体内で次元双極子を生み出しながら成長する戦闘怪人だった。周囲にできるだけ影響を与えずに次元回廊を開くべく試行錯誤を繰り返し、もう少しで確立できると思った矢先、それが暴れ出して‥‥。

なぜ皇帝陛下は真実を仰って下さらなかったのか。自分の軍略を、陛下は待って下さると信じていた。それを、なぜ、あんな‥‥。



男の父親はまだ彼が小さかった時に死んだ。仕事で事故に遭ったのに治療する金が無かったからだ。母親は小さな息子を抱えて働いて、やはり過労で死んだ。男はそういう階級の生まれだった。この星のそんな時代を、生きて体験した者はもうほとんど居ない。むかし、むかし、遥か昔の話だ。

母親が死んだ時、子供は分別のつく年齢だった。その時はもう自分の傍にいた"声"に、貴方が居るのになぜこうなのかと泣いた。"声"は言った。人でなければ国は治められないと。
利発だった子供はある平民の夫婦に引き取られることになった。普通はあり得ない縁組みで、子供は親の名も自分の名も、全てを捨てねばならなかった。そして子供は"声"の導くまま一心不乱に、国を動かす者を目指した。

軍事国家であったスパイダルが故に、軍功を挙げれば手っ取り早く上に登れた。むしろ身分の影響が少ない戦場は、気持ちが良かった。男は侵略の前線に常に身を置き、その真新しい領土で仮の統治をする間に、貴族の優遇を廃し平民を重用する道筋を引いた。当然そのやり方を煙たがる者は多かったが、男を妨害しようとする者には不思議な不幸が訪れるのだった。

黒騎士は人々の英雄となり、同時に"声"もその存在を明確にし始めた。数々の予言者たちがこぞって"声"のことを語り出し、人間の「皇帝」がその地位を奉還した時、スパイダルは目に見えぬ皇帝を押し頂く帝国となった。

そうして男は最高位に上り詰めた。

今、この星には、かつて自分が泣いたと同じ理由で、泣く者はほとんどいない。確かに貴族達は居る。何かの折りに零落してしまう者もいる。それでもあの時のように、階級の底に押し込められて、なんのチャンスも無いままに一生を終える者は居ない。

男の幼い時の願いは叶い、男は"声"に感謝した。
男の歳の取り方はどこかおかしくなっていて、知人と呼べる者はとうの昔に亡くなっている。男の素顔を知る者も殆ど無く、おおっぴらに本音を言い合える者も居ない。それは「寂しい」というものだったかもしれないが、それでもそれは自分の宿運と思っていた。何よりも、あの方がおられるのだから‥‥。


一言、死せよと命ぜられたなら、喜んでそうしたのに‥‥。
‥‥‥‥なぜ‥‥‥‥。


あの時、その思いで身体中が裂け飛びそうだったのに、手足はただ戦っていた。
彼らを薙ぎ払い、打ちのめすその手応えすら不快で恐ろしかった。

そうして怪物がこの背中を食い破って出て行った時、己の中の全ても抜け出ていった。
残っていたのは、幾多の次元の中でただ一人、血を分けた息子の声と感触だけだった。

胸元をまさぐれば、治った傷跡が指先にざらつくだけ。長年埋め込まれていたディメンジョンストーンはもはやそこに無い。息子がその手であの石をはずした。満ち足りていた。甘美と言っていいほどの瞬間だった。最期にあの子が生き延びるために、何かができて嬉しいと、心底、思った。



男は慣れぬ左手でペンを持つ。しばらく考えてから、文字を習ったばかりの子供のように真剣な筆致で、まず感謝の言葉を書いた。

きっとこの言葉に嘘は無い。この家の居候として過ごしたこの二ヶ月。

きっとこれは幸せというものだとわかる。この抜け殻のような自分でも、誰かの役に立つことがあるのなら、ここに居たかった。エラドゥーラが言ってくれたように‥‥。

皇帝を裏切り、生き長らえて、それでも後悔せずにここにこうして在れるのは、きっとこの家族と過ごせたからだ。クエルボ、エラドゥーラ、プルカ。そしてこの場に居ないのに、あの三人をしっかりと受け止めているこの家の主、オルメカ‥‥。



<探したい事がある。私は大丈夫だから、心配しないで欲しい>

一字、一字、ゆっくりと言葉を書き並べていく。



赦して欲しいとは思わなかった。ただ、何故と問うた。

この身が焼かれるなら、むしろそれでいいと思った。

なのに、何も、一言も無くて、ただ眼前に、雷火が弾けただけだった。

赦されたわけでは無い。完全な、拒絶。

だが、あの兵士達が殺されて、この自分が見逃されたのは、何故。

そして今、軍はどうなっているのか。あの新参謀の元で‥‥。



男は書き終えた手紙の上に先程の宝石を3つ載せると、そっと立ち上がった。もう頃合いだ。三人とも十分に眠りについているだろう。
短刀をベルトから繋がる革のホルダーに納めて左股に固定する。丸腰の感覚が心許なかったが仕方が無い。ツァルコに導かれるままに打ったあの剣は、今どうなっているのだろう。鞘はアラクネーに、本体は三次元人の手にと、ばらばらになってしまったが‥‥。

処分して欲しいと書いた上着を布にくるんで椅子に置くと、朝整えた寝台を、もう一度几帳面に整えた。そして静かにくぐり戸を開けて外に出た。

まるで三次元のように、淡いクリーム色に、弧状の月が出ている。だがこの月は、満ちることも欠けることも動くことも無い。ドームの内側に投影されているただの飾りだ。こんな飾りの無いドームもある。クラヴァータの月は赤かった。ドームの管理者の趣味かもしれない。少なくともスパイダル帝国の主星では、どこに行こうが、自然の織りなすショーは見られない。


外門の方に歩き出し、後ろ髪を引かれるように振り返って驚いた。母屋の前に、二つの人影があった。背の高いほうが軽い足音と共に駆け寄ってくる。胸の前に何かを抱きしめている。長いスカートがふわりと膨らんで、しっかりとした体つきのエラドゥーラが少女のように見えた。

「行くのね」
女の黒い瞳が、怒るでも、泣くでも、微笑むでもなく、月を映して男を見上げた。
「ああ」
男はただ、そう応えた。

「これを持って行って」
エラドゥーラが差し出したのは、折り畳まれた黒い布。路銀と思われる小さな袋。そして一振りの剣。
躊躇った男にエラドゥーラは言った。
「マントはオルメカのだから、あんたには少し短いかな。剣も古いのよ。でも割に最近削いだばっかりだって義父さん言ってたわ。お金もちょっとしか無いけど‥‥」
「しかし、エラドゥーラ。これ以上‥‥」

「ホバー取られたら大変だったんだから遠慮しないで。あって困ることはないわ」
エラドゥーラは持っていたものをどんと男の胸に押しつけた。ぴんと人差し指を立てると、いつもの気の強そうな笑みを浮かべ、宣言するように言い放った。
「悪いと思うなら、いつか返しに来て。いいわね」

「‥‥わかった。お借りする。ありがとう‥‥」
男がマントを受け取るとエラドゥーラが載せてあった剣と布袋を持ちあげる。男は女の無言の指示のままにマントをばさりと身に纏った。剣を取ると右脇に鞘を挟んで少しだけ柄を引き、刀身を改めてから右腰に納める。有り難く受け取った金の袋はマントの内側に仕舞った。

男は襟元と肩の位置をきちんと整えると、エラドゥーラと、そしてその脇にゆっくりと近づいてきたクエルボに向かい、深く一礼した。月の光が刻む陰影は男の顔立ちをより端正に見せた。膝丈になっていたが、黒いマントがよく似合う。その佇まいには見ている者を荘厳な気持ちにさせる何かがあった。

「クエルボ殿。エラドゥーラ。本当に世話になった」
「ラサ‥‥と、まだそう呼んで良いかの?」
老人の問いに、男は少し笑んだ。
「もし宜しければ、その名前も、暫くお借りしたい」
老人はくしゃりと笑った。
「必要なだけ、いつまでも」

クエルボは打ち場の方を見やった。
「今、寝かせてあるあれの"斜割り"は、やらずにおこう」
男もまた老人の視線を追った。今朝"陸割り"をしたマイカニウムが二本、あそこでまだ寝ている。
「またいつか、続きを打ちに来てくれたら、嬉しい」
「ありがとう。ぜひ、そうしたい‥‥」

老人はちょっと茶目っ気のある表情で男を見上げた。
「余計なことかもしれんがな。貴殿はもっとワガママになる練習をした方が良さそうじゃ」
エラドゥーラが滑稽な顔つきで大きく頷き、男は苦笑した。

「‥‥貴殿がもし、記憶のないフリをしていたのだとしても‥‥」
老人の言葉に男は目を見開いた。老人はまっすぐに男を見上げていた。
「儂はきっと快く許せるじゃろう。貴殿ほどのお人が、そうせざるを得なかったのなら、きっと止ん事無い理由があったのだと思えるからの」

男の唇が何かをこらえるように歪み、そのまま俯いた。
老人はマントの上から男の左腕をそっと叩いた。
「己の思うがままに歩いてみて、困ったら、いつでもここを思い出して下され」

男は身を起こし、老人と女の顔を見つめると、もう一度深く頭を下げた。

そしてくるりと向きを変えると、振り返ることもなく、荒野に踏み出していった。

遥かな時を経て、この荒野で、もう一度、生まれた。

その意味と出会うために。


===***===(了)===***===
2004/5/4
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