琥珀 II 月並みの、されど‥‥

「こりゃまた‥‥。ずいぶんやられたもんだね、兄さん」
店に入ってきた若い二人のお客様。そのお一人を見るなりメガネさんが云いました。
「はあ‥‥。ちょっと、色々‥‥」
恥ずかしそうに頭に手をやった方は赤星さんとおっしゃいます。スポーツマンタイプのなかなかハンサムな方なのですが、今日はまあ、なんということ。左頬に青あざが浮き、唇は切れ、目の上や顎にも絆創膏。ジャンパーを抱えている左手も包帯で巻かれ、紺色のTシャツの襟元からも包帯がのぞいています。

「驚きましたね。大丈夫ですか?」
「ええ、まあ‥‥」
「マスター、これを普通の人間と思っちゃダメです。たぶん殺しても死なないんだから」
テンガロンハットを取りながらカウンターに座ったのはお友達の黒羽さんです。お二人がこの店にいらして下さるようになってから、もう5年ほど経つでしょうか? 黒羽さんの方はもっと前からのお馴染みなのですが。
しかし赤星さんはどう見ても相当殴られたご様子。これがメガネさんなら驚きもしませんが、研究所にお勤めの方がなんでまた‥‥。とはいえ立ち入ったことをお聞きしてはいけません。

「すみません、マスター、今日は‥‥。ホットミルクを頂けますか?」
黒羽さんの隣に座った赤星さんはちょっと申し訳なさそうにそう云いました。
「おやおや。大分お辛いようですね?」
「あ、いや。もうほんと平気なんです。ただ、どうしても早く直したいので」
いつものこの人らしい笑顔ですが、眼差しはとても真剣です。確かに怪我にアルコールはよくありません。昔は有り余る体力に物を云わせて平気でムチャをする印象の方でしたが、ここ2年ほどで随分お変わりになられた感じがします。
「そうですね。大事にして下さい。黒羽さんは、どうされますか?」
「入れて頂いてるのをお願いします」
「かしこまりました」

小さなミルクパンに低温殺菌の牛乳を入れて弱火にかけ、それを横目で見ながらグレンタレット15年のボトルを取り出しました。ネックには空を飛ぶ鳥の彫り物が下がっています。黒羽さんのロックをお作りしたところで、パンも丁度よく温まった様子。ミルクをホットグラスに移し、小さな紙に包まれたボトルを取り出しました。黄色いキャップを開けると独特の香りが広がります。ホットミルクに少し注ぐとまるでタバスコでも振り入れたかのよう。赤星さんは目をぱちくりして見ています。
「アンゴスチュラ・ビターズというリキュールです。カクテルの風味付けに使うものですが、実は胃の薬として作られた薬用酒なんです。ゆっくり休みたい時にはいいんですよ」
「へえ、そんなのあるんですか。でも面白い香りですね」

「よしよし。薬だろうがなんだろうが酒が入ったところで、旦那がオレより一つオジサンになったことを祝おうか」
黒羽さんがグラスをあげてそう云うと、赤星さんが拗ねたように返します。
「一ヶ月経ちゃ同じじゃん」
「貴重な一ヶ月だな。特に瑛ちゃんによく言っとかないと」
「確かに‥‥。ちょっとしか違わないのに、アイツが一番オジサンって言うもんな」
黒羽さんはいつも通り、ゆっくりと氷を回して、小さな小さな蒸留所で出来たスコッチを楽しんでいます。一方の赤星さんは少しピンクがかったホットミルクにおっかなびっくり口をつけ、ほっと溜息をつきました。
「ホントだ。なんか身体の力が抜けるような感じですね」

「そうだろうとも。長年の懸案に決着つけて、有望さんに結婚を申し込んだんだからな。ほっともするだろうさ」
黒羽さんの悪戯っぽい云い方に赤星さんはむせかえり、慌てて胸を叩きました。
「‥‥な‥‥、なんで知って‥‥。お、俺、まだ昨日、言ったばっかで‥‥っ」
「瑠衣ちゃんはああ見えて意外と鋭い。お姉さまは瑠衣ちゃんに聞かれると嘘が言えない。事実を知って黙ってられる瑠衣ちゃんじゃない。と、まあ、簡単な三段論法だ」
「ぜんぜん段になってねーだろっっ」

「これはこれは。松ちゃんが居なくて良かったねぇ。目と耳の毒だ」
メガネさんにまで冷やかされて赤星さんは耳まで真っ赤です。有望さんという方は赤星さんの恋人で、お名前だけはお聞きしていますが一度も来店されたことがありません。赤星さんは黒羽さんとだけこの店に来る‥‥というより、黒羽さんが誘った時しか来ないのです。赤星さんにとってこの店は、あくまで「黒羽さんと飛島さんの店」なのでしょう。そんな不器用さも頑固さも、私はけっして嫌いではありません。

「そのご様子だと良いお返事が頂けたようですね?」
「‥‥はい‥‥。‥‥ほんとは今、そんな場合じゃ無いんですけど‥‥。でも、なんか‥‥俺、ずっと逃げてたんだと思ったら、どうしても言わずにいらんなくなって‥‥」
「よろしかったじゃないですか。タイミングを逃して、まさに長すぎる春のまま、別れてしまう方々も沢山おられますよ」
「マスター、こいつら、もう十二分に長すぎる春ですよ。だってガキの時から一緒なんですよ。いまどき何考えてんだって感じでしょう?」
黒羽さんがくすくすと笑います。からかい半分優しさ半分のこの方らしい云い方です。
「じゃあもう20年近くお付き合いを?」
「いや、お付き合いって言われても‥‥。なんつーか、その‥‥」
あれあれ。普通に戻りつつあった赤星さんの顔がまた少し紅潮してきました。

「まあ有望さんってのも、コイツに負けず劣らずの変わったお人ですからねぇ」
「へ? そうか?」
赤星さんが意外そうな顔で黒羽さんを見ました。黒羽さんはにやりと笑い返すと私の顔を見上げます。
「大変な美人なんですがね、典型的な研究者なんですよ。行きたがる処とか欲しがる物も、なんか普通と違ってるみたいですしね。だから逆にこいつでも務まってるんです」
赤星さんがちょっと苦笑するとフォローに入ります。
「まあ、そういうトコもあるかもしれませんけど‥‥。でも、花見たり、甘いもの食べたり、義姉とかと話してるとごく普通に思えますけどねぇ。ただ、あいつ、昔から理科と数学にはまってたから。俺も嫌いじゃなかったけど、あいつはとにかくとことんな性格で‥‥。‥‥でも‥‥。それも好きなトコだから‥‥」

今度は黒羽さんの方が少し驚いたような顔をします。赤星さんは照れているのか空になったホットグラスの持ち手をぐるぐる回しているので気づきません。
「俺‥‥何かやりたいと思って、それにのめり込めるヤツって凄いなって思ってるんです。兄貴はそういうタイプだったけど自分は違ってたから。で、有望ものめり込みタイプ。まあ研究者ってそーゆー人多くて、時々困ることもありますけどね」
黒羽さんがしきりに頷くので赤星さんはまた苦笑しました。
「‥‥でもそーゆー奴が一生懸命やってるの見てるの好きだし。たまには俺でも役に立つことあって、喜んでもらえたらワクワクするし。いや、単純にあいつといる時間が好きなのが一番大きいんですけど‥‥」

私は喉元まで出かかった「その方を今度ぜひお連れ下さい」という言葉を飲み込みました。これはもう赤星さんと黒羽さんの気持ちにお任せするしかできないことですから。
「‥‥なるほどねぇ。‥‥旦那がそんな殊勝なお人とはね」
「俺はいつも殊勝で真面目だろ?」
「何をおっしゃる。お前さんはせいぜい応援団の主将ぐらいが関の山」
「なん‥‥‥‥っ」
赤星さんは声をあげて笑おうとしたようですが、少し顔をゆがめて右脇を押さえ込みました。

「ほらほら。怪我人はそろそろ帰った方が良さそうだな。洵先生、今夜も来てくれるんだろ?」
「あ、やべ!」
赤星さんは立ち上がると赤いジャンパーを手に取りました。
「お前、どーすんだ?」
「今夜はもう一杯飲みたい気分でね。ここはいいから早く帰んな」
「サンキュ。じゃ先帰ってるな。マスター、ごちそうさまでした。今日はよく眠れそうです」
「それは良かった。またぜひいらして下さい」
「はい。じゃあメガネさんも、お休みなさい」
メガネさんが手を振ると、包帯だらけでも元気なイメージの赤星さんはばたばたとお店を出て行きました。


からりと氷の音をさせてグラスを空けた黒羽さんは、うってかわってどこか寂しげな表情になっていました。グレンタレットのボトルをピンと指先で弾き、バックバーを見上げましたが、なかなか決まらないご様子です。

「‥‥‥‥兄さん。次の酒、オレが奢ろう」
「え?」
メガネさんの唐突な言葉に黒羽さんが吃驚した顔をしました。メガネさんは構わず続けます。
「マスター。ネグリタ・ダブル・アローマ。兄さんにはロックで。オレはストレート」

私はメガネさんの選択にちょっと驚きました。ダブル・アローマはいかにもラムらしいラム。乱痴気騒ぎが語源になっている酒は黒羽さんにはあまり似合わない気がしたからです。それでも黒羽さんを見るメガネさんの表情はどこか弟でも見るようで、私は黙って注文通り二つのグラスを作りました。
「じゃ、遠慮無く頂きます」
黒羽さんはラム独特の香りを確認するようにゆっくりとグラスの琥珀色を飲み下し、どこか子供のように無防備な声を上げました。
「はは‥‥。ぴったりだ。こういうのを飲みたかった。ありがとうございます」
「そうかい。よかったな」

普段よりずいぶんと早いペースでグラスは空になりました。メガネさんが無言で目配せするので、私はまた同じ物をお出ししました。そして三杯目が空になった頃、メガネさんがそっと云いました。
「気を悪くしたらすまんが‥‥」
「はい?」
「兄さんも、女が怖いクチかい?」

かなり不躾な質問に私のほうが目を白黒させてしまいました。なのに黒羽さんは淡い笑みを浮かべたまま、言葉を探している風です。
「怖い‥‥。うーん、怖いね‥‥。そうなのかもしれませんね‥‥。‥‥‥‥少なくとも、家庭ってヤツが怖いのは確かでしょうな」
黒羽さんは飛島さんと兄弟同様に育ったと伺っていますが、実のご両親がどうされたのかは聞いたことがありません。

「オレの両親ってのが、オレがガキの頃にいきなり行方不明になっちまったんです。それで近所の飛島んとこに引き取られたんですが、そこもお袋さんが居なかった。ただ近所のおばさん連中が親切でねぇ。そうでもなきゃ、あの親父が二人のガキ育てるなんてできなかったでしょうや‥‥」
中南米の海の男たちに愛された酒には、人を開放的にする不思議な魔力があったようです。黒羽さんはまるで独り言でも云うように続けます。

「少し大きくなってから飛島のお袋さんも、実は失踪してたって聞きました。あいつは一度もお袋に会いたいと言ったこたぁなかったけど‥‥‥‥。‥‥ま、オレもそうか‥‥‥‥。‥‥‥‥あいつ、どうだったんだろ‥‥‥‥」
黒羽さんはグラスを置き、肘をついた左手をこめかみのあたりに当てて本気で考え込んでいます。少し酔われたのも確かなようです。

そんな様子をしばらく見つめていたメガネさんが口を開きました。
「‥‥女はいつかどこかに行っちまうし、家庭は壊れていく。だから近づかないと‥‥?」
「んなはずねえって‥‥頭では解ってるつもりなんですがね。親父もお袋も、已むに已まれぬ事情があったのも判ったってのに‥‥。‥‥‥‥ダメですね、臆病モンで」
「ま、少なくともオレには、兄さんを臆病者呼ばわりする資格はなさそうだがな」
メガネさんがおどけた風にそう云い、黒羽さんはしばらくメガネさんを見つめ‥‥そして声を上げて笑い出しました。
「‥‥でも、さっきの赤星じゃないですが‥‥、幸せそうな子供を見てるのは好きですよ。自分が親父になってるところは、とんと想像出来ねえのに」
「ハハ‥‥。オレもだ」
二人はまた妙に陽気に笑いました。そして黒羽さんは時計を見て立ち上がり、黒い帽子を手に取りました。

「どうも今日はありがとうございました。楽しい酒でした」
「もうお帰りですか?」
「ええ」
黒羽さんは少し恥ずかしそうに笑ってメガネさんと私の顔を見ました。
「今日のことは忘れてやって下さい」
「かしこまりました」
メガネさんもひらひらと手を振ります。
「わかってるさね。赤い兄さんによろしく。その時はちゃんと祝ってやれよ」
「はい。もちろん。では、また‥‥」



ドアが閉まって暫く店内は静まりかえりました。メガネさんがぽつりと呟きます。
「‥‥月並みの、されど貴き遠い彼の地‥‥か‥‥」
「メガネさん‥‥?」
「あ、いや。ここまで似てるとは思わなかったからサ」
メガネさんは苦笑しました。

「‥‥あいつ、あんな状態のダチ連れて来て‥‥。どうしても何か思い切りたかったのかね」
「思い切るって?」
「自分の手の届かないとこに、ダチが行っちまうんだってさ」
「赤星さんは結婚したって変わらなさそうですけどねぇ。そりゃ時間的な自由度は減るかもしれませんけど」
「それがあいつにとっちゃ、辛くもあり、救いでもある。‥‥でもいつか、時が経てば‥‥」

メガネさんはとつぜん言葉を切り、にやりと笑って私を見ました。
「で、マスター。これからどんな酒を奢ってくれるの?」
「えっ?」
「あいつに忘れてやるって約束したろ? 忘れるには酒がいるじゃないか」

いったい、どういうリクツなんでしょうか。
メガネさんがカウンターにぐっと身を乗り出してきます。
「とっときのラムがあったよね。ラパラン」
「この間飲んじゃったでしょ。あれ、めったに手に入らないんですよ?」
「そうかな。マスターのことだ。まだあると見てるんだけど」
「‥‥‥‥せっかくのしんみりしたムードが台無しじゃないですか」
「それを忘れるのが、今のオレたちの為すべき事だろ?」

私は大げさに溜息をついてみせ、いそいそと新しいラパラン1952を引っ張り出しました。封を切って二つのショットグラスを満たします。

まあいいでしょう。忘れられるわけは無いんですから。

でも良い友と良い酒があれば、いつかは少し、近寄ることができるかもしれません。


月並みの、されど貴き遠い彼の地‥‥。



===***=== (The END) ===***===

                    2004/5/10       (琥珀Iへ) (戻る)




background by 幻想素材館Dream Fantasy