琥 珀 

夕方からいかにも梅雨という雨が降り始めて、相変わらず私の店には誰もお客がいません。トレンチコートに黒メガネの男性が1人カウンターに座っていますが、彼――メガネさん――はこの店の調度品と言っていいほどの常連なので、お客の数に入れるのはちょっとはばかられます。

まあ夜の8:00ではバーに来るにはちょっと早すぎる時間でもありますが、今日はそろそろあのお二人が来るハズ‥‥と思っていたら、お待ちしていた方が入ってきました。

「いらっしゃいませ。おやおや、びしょぬれじゃないですか、黒羽さん」
「はあ‥‥」
黒ずくめの姿をした彼は、帽子をとり、入口で少しためらっています。濡れた服を気にしているのでしょう。見かけによらず細やかな方です。私はタオルを2枚取り出しながらうながしました。
「気にせずに、入って下さいよ。誰もいないんですから」
「オレがいるじゃないか。マスター、ひどいな」
メガネさんがそう言うと、私から受け取ったタオルを2枚、立て続けに黒羽さんに投げました。
「ほら、兄さん、遠慮するな。兄弟も一緒なんだろ」
「いえ‥‥。今日はちょっと別のヤツなんです」

黒羽さんが一歩店内に入るとその後からもう1人の青年が入ってきました。がっちりしたいかにもスポーツマンという感じの方です。
「すみません、お借りします」
彼は黒羽さんからタオルを受け取ると濡れそぼった髪を拭きました。だけど、脇にいる黒羽さんはタオルを持ったまま、少しぼうっとした感じで店内を眺めています。この人にしては珍しい。お友達がそれに気がつくと、黒羽さんの肩のあたりを叩くように拭いてあげました。

メガネさんがもの問いたげに私を見たので、私もわからないと、かすかに首を振って返しました。黒羽さんが飛島さん以外の人とこの店に来るのは初めてです。特に今日は黒羽さんの誕生日。事情は知りませんが黒羽さんは飛島さんと一緒に育ったそうで、お二人は、20歳の時から、お互いの誕生日をこの店で過ごして下さっているのです。

二人は濡れた上着を脱いで中表に畳むとカウンター席に腰掛けました。お友達が重ねたタオルを礼を言って差し出しました。二人とも若いのに、気持ちのよい礼儀正しさに嬉しくなります。

「今日で23歳ですね、黒羽さん。おめでとうございます」
黒羽さんは目を丸くして私を見ました。
「‥‥マスター‥‥、今日が誕生日だなんて言ったことありましたか? だいたいオレ、年に2、3度しか来ないのに‥‥」
「3年前‥‥初めていらした時にそうお聞きしましたよ。成人してから欠かさず来てくださってありがとうございます」

黒羽さんはひゅう〜と口笛を吹きました。
「いや‥‥ほんとうにスゴイ記憶力ですね‥‥‥‥」
「兄さん、レモンのマスターをそこらのバーマンと一緒にしちゃいけないな」
定位置に座っているメガネさんが口を挟みます。そういうメガネさんだって、来る早々、今日はあいつらが来る日だって言ってたのに。でも、メガネさんが黒羽さんと飛島さんを気に入るのは、なんとなくわかる気がします。二人とも、たぶん若い頃のメガネさんそっくりなんでしょう。

「‥‥いや、そうは思ってたんですが‥‥。自分のことで言われると、驚くものですね。ああ、遅れました。こいつは赤星っていいます。大学での腐れ縁でして」
「初めまして」
黒羽さんの紹介で、お友達が私とメガネさんにぺこりと頭を下げました。こうして見ると童顔でどこか子供っぽい感じすらある方です
「‥‥‥‥で、飛島の野郎、ちょいと遠くに出かけちまって‥‥。来られなかったんですよ」
「外国ですか?」
「ええ、まあ。で、今日は、あいつの入れてたヤツ、飲んじまおうと思いましてね」
「おやおや、それで助っ人を連れてらしたという訳ですか」
「はは‥‥。そんなトコです」
鼻の頭を掻きながら、黒羽さんはイタズラっぽい笑みを浮かべました。知人のボトルをその人抜きに飲む時は、こんな表情を浮かべる男性が多いものです。私は一本のスコッチをカウンターに置きました。グレンファークラスの105。飛島さんのお気に入りです。

赤星さんがボトルの首にかけてある小さな木彫りを手に取りました。鷲か鷹が翼を広げて飛んでいる姿。素朴な木彫りが黒と金と赤という少々派手過ぎるラベルに落ち着きを与えてくれる感じです。
「そいつぁ、あの山男が彫ったのさ」黒羽さんが説明します。
「手先の器用なヤツでな。ここで飲みながら、手慰みに彫ったってわけだ」
「いらないと言って置いていかれたんで、こうしてみたんですが、なかなかいいでしょう?」
「へえ‥‥。上手いもんだなぁ。なんか、ほんとに飛んでいきそうだ‥‥‥‥」

ボトルの中身はちょうどシングルで3杯といったところでしょうか。
「お二人ともどうされますか?」
「オレはロック、こいつにはストレート。両方シングルで」
勝手に指定された赤星さんは苦笑して、それでいいという風に頷きました。

「60度ありますから、そのおつもりで」
ウイスキーのアルコール度数は普通43度ぐらいですが、これはとても強いのです。黒羽さんはにやにやしながら、氷の入ったグラスをゆっくりと回しています。ショットグラスを手にとった赤星さんはその琥珀色の液体をそっと口に含みました。舌の上で広げるようにしてから飲み込み、ちょっとだけアフターを確認するように口をすぼめて息を吸うと、すかさずチェイサーをあおりました。

「さすがに強烈だね、こりゃ! こんな酒がお気に入りって、なんかすげえ話だな」
「親父殿もとんでもねえウワバミだったのさ‥‥。オレにはついていけない世界だぜ」
「もしかして、赤星さんは、飛島さんをご存じないのですか?」
「え? ああ、一度‥‥。一度逢って‥‥ちょっと話しただけなんですよ」
私の問いに、彼は少しぎこちなく笑いました。

「そういや、旦那、仕事の方はどうなんだ?」
「うーん、相変わらずわけわかんないうちに流れてくって感じ」
「お前さんはだいたいいつもワケがわかんないんだよ」
「でもよ、なんか、学生ん時よりはラクな気がする。きっと、お前がいないからだな」
「ほーお、そりゃ、どーゆー意味だ?」
「考えてみりゃ、お前と付き合ってて、よく4年で卒業できたよな」
「それはこっちのセリフだろう! だいたい自分だけは有望さんってぇ助っ人、確保しといてから!」
「へへっ 人徳人徳!」
「なーにが人徳だ。お前がそうなら、オレなんざ、福の神だと思うがね」

学生というのが信じられないほど大人びた人というのが、私の持っている黒羽さんと飛島さんのイメージです。飲むのはきっちり3杯だけ。会話も必要最小限で、それでもお互い分かり合える雰囲気。もちろん長い付き合いがあってこそなのでしょうが、彼らの微妙な関係は、筋金入りのハードボイルド人生を送ってきたメガネさんも、普通じゃないと舌を巻いていたぐらいなのです。
けれども、この赤星さんという方と一緒だと、黒羽さんも年齢相応‥‥というより少年に戻ってしまった感じです。これはこれで実に微笑ましい。私は人のこんな意外な一面を見るのが大好きでした。

「お二人とも、この春でご卒業されたんですか?」
「あ、はい。おかげさまでなんとか‥‥」
赤星さんの照れたような答えに黒羽さんがにやりと笑って言いました。
「マスター、こいつ、こんな顔して何やってると思います?」
「難しいですね。スポーツ関係の方と思ったんですが、今のお話だとちょっと違うようですし。警察や自衛隊の方‥‥でもなさそうだし‥‥。体育の先生ですか?」

「ほらな、赤星。お前さんは、誰が見ても肉体労働系に見えるんだよ」
「半分当ってるよー。もう体力勝負だよ‥‥。徹夜の実験とかそんなんばっかなんだぜ?」
「こいつ、研究所勤めなんですよ。一応研究員なんです」
「研究所の"警備"じゃなくて?」
わざとそう言ってみせると、赤星さんはカウンターにつっぷし、黒羽さんは我が意を得たりというように、その肩を何度も叩いて笑いました。

「それよっか、黒羽。お前は大丈夫なのかよ。佐原さん困らせてねえんだろうな?」
「失敬な。旦那じゃあるまいし」
「でもよ。佐原さんって、すっげー、良さそうな人な。俺、今日、初めて会ったけどさ!」
「ああ見えて、とんでもねえキレ者だぜ、おやっさんは! 学ぶべきトコが山のようにあるしな。立派な"さすらいの私立探偵"を目指してがんばれそうだ」
「おいおい! "さすらいの"は余計だろー!」

「兄さんたち。もしかして、佐原って、佐原俊平探偵事務所の佐原さんか?」
メガネさんの一言に、黒羽さんの顔が輝きました。
「メガネさん、ご存じなんですか、ウチの所長のこと?」
「直接会ってどうこうって関係じゃないがな、めっぽう凄腕だって評判だよ。ぼうっと見せているが、やっかいな話も見事にさばく。正義感も強い。それでいて敵を作らないのが、また大した人だとな」

黒羽さんはひどく嬉しそうに頷いています。赤星さんもにこにこして言いました。
「そっかー。刑事コロンボみたいな人なんだ。俺、そーゆーのはよくわかんねーけど、でも、あの人、半年も経ってねえのに、お前のことよく分かってくれてる感じだったな。今日、お前訊ねて事務所に行った時、そんな気がして、なんか嬉しくなっちまってさ」

お二人はしばらく楽しそうに仕事の話をしていました。グラスの中はグレンリベット18年になっています。社会人三ヶ月めにしてはずいぶん多忙な様子ですが、とても充実している感じです。仕事の内容はぼかしておられますが、"所長"と"博士"という上司の方を、お二人がどれだけ尊敬しているかは、よくわかりました。

学校を卒業した最初の一年。社会人として世の中に出たその時期に学ぶことは本当に多い。だから、そこで一生尊敬できるような人に出会えたら本当に幸せです。二人の話を聞きながら、私も自分の修行時代を思い出しました。取りすがりのバーで出会った、あの頑固で厳しいバーマン‥‥いえ‥‥師匠のことを‥‥。

黒羽さんが空のグラスをすっと押しやると、飛島さんのボトルを手にとってしげしげと眺めました。そこにはちょうどシングル一杯分の琥珀色が残っています。そんな黒羽さんを赤星さんはじっと見ていました。

黒羽さんが赤星さんにちょっと笑いかけるとボトルをカウンターに置きました。グレンリベット2杯分の金を置くと立ち上がります。そして赤星さんを押しとどめると、目顔で私にボトルを示しました。

「マスター。残りの酒、コイツに注いでやって下さい」
「お、おい! 何言ってんだよっ マスター、待って下さい!」
赤星さんの顔色が一瞬で変わりました。黒羽さんの両腕を掴んで揺さぶるように言います。
「お前が帰るんなら、俺も帰るからさ。これはまた今度‥‥‥‥」

「こんな中途半端に残ってるなんざ、おさまりが悪くていけねえや。オレはちょいと仕事が残っててな、つきあえなくて悪いが、あとはよろしく頼むぜ」
黒羽さんは赤星さんの手を押しやると、ドアに向かいました。
「おいっ 待てよ! 俺がこの酒、飲めると思うのかよっ?」
追いすがろうとする赤星さんの眼前に、黒羽さんは開いた掌をぱっと突きつけました。

「勘違いするな。別にそんな酒、頼めばいくらだって飲めるだろう? ただ、今日、雨の中、待たせた詫びに、もう一杯、飲んでいって欲しいだけさ」
「黒羽‥‥っ」
「赤星。お前がきっちり空にしてくれ。わかったな」
黒羽さんは、にこりと笑い、私とメガネさんに会釈をして、雨の中に出ていきました。


「兄さん‥‥。ここへ来て、座んな」
メガネさんが赤星さんの背中に声をかけました。
「‥‥‥親友の杯は受けなきゃならんさ。それがどんな酒でもな‥‥」

メガネさんの言葉で、赤星さんはのろのろと向き直り、カウンターに座りました。じっとボトルを見つめていましたが、決心したように私の顔を見上げました。
「マスター。残り全部、ストレートでお願いします」

私は新しいショットグラスに、最後の一滴まで、飛島さんの酒を注ぎきりました。最初に飲んだ時と同じように、赤星さんはそれを一口含み、強い刺激を確認するように目を閉じました。そうしてグラスを置いた彼は、深くうつむいてしまいました。

「飛島‥‥死んだんだな?」
メガネさんが静かに言いました。
「はい‥‥」
顔を上げた赤星さんの瞳は今にも涙がこぼれそうでした。

「今年の2月に事件に巻き込まれて‥‥。俺が初めて彼と逢った日だったんです‥‥。黒羽って、子供ん時のこととかほとんど話さないんですけど、飛島のことだけは『あの山男が、あの山男が‥‥』って、よく言ってて‥‥‥‥」

赤星さんがカウンターに肘を立てて両手に顔を埋めました。
「‥‥‥‥あいつ‥‥今日、雨の中で‥‥飛島の墓の前にいたんです‥‥‥‥。遠目でよくわからなかったけど‥‥これと同じような瓶、持ってました‥‥‥‥」
彼の肩は少し震えているようでした。

「‥‥なあ、兄さん‥‥。オレも何度か戦友や親友を見送って来たさ。人は遅かれ早かれ死ぬ。月並みだがな、永遠に心の中に生きてるって映画のセリフは、伊達じゃないんだぜ?」
「俺‥‥永遠なんかじゃなくていいから、飛島には現実に生きてて欲しかったですよ‥‥。黒羽のこと、ほんとにわかってやれるの、きっと彼しかいないと思うから‥‥」
「だが、もういない‥‥。それが事実だ。さあ、とにかく、そのグラス、きちんと空けちまいな」

赤星さんはこくりと頷くと、噛みしめるようにゆっくりと、小さなグラスの中の琥珀色を消していきました。その焼けるようにきつい酒を飲み干す間、彼はチェイサーのグラスに一度も手を伸ばしませんでした。

空になったグラスをカウンターに置き、大きな両手で105の空き瓶を包むように持って言います。
「あの、マスター。これと同じモノ、またとっておいてもらえないでしょうか?」
私は新しいグレンファークラス105を彼の前に置きました。赤星さんは、飛島さんの小さな木彫りをそっと新しいボトルに移し替えると、私の方に押し返しました。
「すみません。これでお願いします」

この人は、この鳥の住処を取っておきたかったのかもしれないと思いました。

彼は上着を取り上げてボトル代をカウンターに置くと立ち上がりました。
「またぜひいらして下さい」
「はい‥‥。もし、アイツがよければ、また来年‥‥」
赤星さんは、ありがとうございましたと頭を下げると、店を出ていきました。


私たちはしばらく、何も言えませんでした。メガネさんが口を開いたのは、ちょうどBGMがジーン・ケリーの「雨に唄えば」に変わった時でした。

「さて‥‥これでレモンの逸話がまた一つ増えたってところかい、マスター?」
「そうですね‥‥」
「自分のために‥‥というか、自分の代わりに泣いてくれる奴がいるってのも悪かないな」
「なるほど。じゃ、メガネさんも頑張って、これからそういう人を作るんですね」
「あれっ? ひどいな! マスターこそオレにとってのそういう人だと思ってるのに?」

若者達の前ではひたすらに決めていたメガネさんの、ちょっと情けない声に私は微笑むと、新しいショットグラスを2つ出しました。取り出したボトルはロングロー16 OLD1974。メガネさんに言わせれば、「"準"男の酒」ですが、今の私たちの気持ちには、この酒が合っている気がしました。

メガネさんがいつもの席から、さっきまで二人の若者が掛けていた席の隣に移ってきました。その前に琥珀色で満たされた小さなグラスを置きます。メガネさんがそのグラスを持ち上げました。
「あの二人のために‥‥。いや‥‥三人か‥‥」
「ええ、三人に‥‥」

メガネさんが、ボトルの首に下がっている小さな木彫りの鳥を少しだけ持ち上げて放すと、それは、かつん、と音と立てて定位置に戻りました。

今は亡き人が鳥になって、空からあの二人を見ている‥‥。

大きな鳥が高く滑翔する様が、鮮やかに心に浮かぶようでした。



===***=== (The END) ===***===
                    2002/5/18       (琥珀IIへ) (戻る)



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