邂 逅
(前編) <中編> (後編) (戻る)

医学部棟の出入り口。今日の最後の講義も半時ほど前に終わっているので、学生の行き来は大分少なくなっていた。そこに男子学生がぶらぶらと歩いて来た。落ち着いた物静かな印象で、こうしていると入学式の日にちょうどこの場でド派手な立ち回りをした男にはあまり見えない。
黒羽健はベンチに腰掛けると本や筆記具の入った鞄を脇に置いて足を投げ出した。なんとなく来てしまった。自分には関わりの無いことだが、こうしていたらまた関わりが出てくるかもしれない。

入学早々いくつか講義をすっぽかしてしまった。情報を集めようと思ったら時間帯ってのは重要だから仕方がない。それでも背もたれに体重を預けて空を仰いだら、なんとなく父親に謝りたくなった。
「でもまァ、見て見ぬふりしてたら、もっと怒鳴られるか‥‥。そうだな、親父」
黒羽健はひと月前に事故で逝ってしまった父に心の中で呼びかける。当たり前だろう、という、しゃがれた声が聞こえてくる気がした。

数日前は桜吹雪がきれいだったのに、今は残った花柄で木が秋色に染まっている。それでもまだ青い空を見れば、確実に日が延びていることが感じられる。目を閉じて瞼越しに斜陽のぬくもりを感じたら、なぜか喧嘩の時に声をかけてきた学生のことを思い出した。開けっ広げな笑顔。黒い瞳がひどく印象的だった。とはいえああいった妙に人懐っこい人間は少々苦手だ。振り払うように首を振って伸びをしかけたら、いきなりそれがそこに居た。

「よっ 黒羽!」
そいつは大股で歩み寄ってくると、まるで昔ながらの友達のようにそう言った。満面の笑み。犬だったら思いっきり尻尾がばたばたしてそうな‥‥。リアクションが浮かばないまま、その脳天気な笑顔を見上げていたら、相手はちょっと困った様子になった。
「あれ? 忘れちった? 俺、工学部の‥‥」
「赤星竜太だったな。その赤星さんがなんでここに?」

赤星竜太は嬉しそうに笑うと、黒羽の隣に腰を下ろした。
「ここ来れば、あんたに会えそうな気がしたんだ」
そういえば欠席してた時に学生らしい人間が訪ねてきたと聞いた。まさかこいつだったのか?
「オレに何か用か?」
「用? 用っていうか‥‥。また会ってみたかったからさ」
「だから、なんで?」
赤星はうーんとしばらく考え込んでから、言った。
「あんたが強いから、かなぁ」

黒羽健は内心がくりときた。以前もこういう理由でつきまとってきた人間はいる。腰巾着候補だったり、何かの時に助けてもらうためだったり、ただ物見高い性格だったり‥‥。だが、せめてこんなにあけすけには言わんのが礼儀ってもんだ‥‥。かすかに身を引いた黒羽には構わず赤星が話し続ける。

「あと、ちょっとあの事務の人に聞いてみたいことがあって」
「事務の人?」
「ほら。あんたが庇った眼鏡の人。細田さんとか言ってたっけ。知り合いか?」
「いや別に。何を聞くつもりだ?」
「どうして絡まれたんですかって」
「‥‥お前さんには関係無い話だろう?」
「あんたにだって関係無いじゃん。なのになんでここいるんだ?」
「それはオレの勝手だ」
「あの人が心配だからだろ。違うか?」

妙な威圧感と温かさがない交ぜになった瞳がまっすぐに見つめてくる。適当にあしらったら後味が悪くなりそうな眼差しだった。黒羽はふうっと溜息をつくと再びベンチの背にもたれかかった。独り言でも言うような調子で呟く。
「濱田事務所の奴ら、細田さんの家に昨年末から何度かおしかけてたらしい。それが1月の中頃になってぴたりと来なくなった」
「へえ。よく知ってるな」
「まあ近所の噂話が好きな人は多いからな。あとは細田さんの息子が事故を起こしてる」
「それって昨年末にか?」
「ああ」
「俺が聞いたのは、今年医学部に医師会のお偉いさんの息子が入学してて、その新入生が細田さんとなんか話してたってこと」
「医師会のお偉いさん?」
「清宮っていうらしい。同じガッコの奴の話だと、合格はムリな成績だったんだって。ま、俺もけっこうやばかったから言いたくねーけど」
赤星はそう言って少し恥ずかしそうに頭を掻いた。さっきの成熟した眼差しが消え失せて、どこか子供っぽい表情になる。黒羽の口元がにやりとほころんだ。
「なるほど。一応話はつながったようだな。考え無しに単純につなげていいのかって気もするが」
「え? でも普通、単純なことの方が多くねえ?」
きょとんとした顔でそう切り返されて、黒羽は今度は声を出して笑った。


校舎から事務員が1人出てきた。赤星と黒羽が立ち上がる。事務員のほうも2人に気付いたらしい。ぎこちなく黙礼して通り過ぎようとした。
「細田さんですよね?」
赤星がぱっと近寄る。困ったような表情を浮かべた細田に向かって、屈託のない笑みでぺこりと頭を下げた。
「俺、工学部の赤星竜太っていいます。入学式の喧嘩の時、ここで見てました」
「‥‥覚えてますよ‥‥。法学部の黒羽くんも‥‥あの時はホントに‥‥‥」
「細田さんは濱田事務所のやつらに何か脅されてたんですか? 息子さんの事故のこととかで」
赤星の問いに細田はびくりと固まった。赤星の後ろで黒羽が思いっきり頭を抱えていたが、赤星の方は気づきもしない。
「細田さん、あの喧嘩、最後まで見てましたよね。途中で逃げちゃっても良かったのに。警察にも自分が困ってもホントのこと言おうとしたように俺には見えたんです。だから、もし何か困ってるなら、俺達になんかできること無いかと思って‥‥」
細田を見る赤星の眼差しは真摯だ。細田はごくりと唾を飲み込んだ。
「‥‥君達はどういう‥‥」

黒羽が赤星をちょっと押しのけるようにして口を挟んだ。
「いや確かに。突然にすみません。ただ、オレ、あいつらがわざと車ぶつけてイチャモンをつけては、人から金を脅し取るのを見たことがあるんです。だから‥‥」
黒羽がまっすぐに細田を見つめた。
「もしかして細田さんも同じようなやっかいごとに巻き込まれたんじゃないですか?」
「‥‥息子の事故が、彼らに仕組まれたものだったと‥‥」
「その可能性もあると思います」
細田が両手に顔を埋めて呻いた。
「‥‥やはり‥‥。だが、もう遅い‥‥」
赤星が少しふらりとした事務員の身体を支えてベンチに座らせると、脇に片膝をついた。

細田はしばらくして顔を起こし、赤星と黒羽の顔を代わる代わる見た。
「‥‥息子が‥‥オートバイで彼らの車とぶつかって。その時は、大したこと無いからと言われて別れてしまったのがまずかった‥‥。あとから何度も家に押しかけてきたんだ。事故の時に息子は友達を後ろに乗せていて、条件を呑まなきゃそっちに行くと言われて、私は、つい、彼らに‥‥」

黒羽が細田の顔の前にいきなり掌をつき出すと首を横に振った。細田が驚いて黙り込む。黒羽が微笑んで言った。
「そこから先は言わないで下さい。オレ達、聞かない方がいいと思うんで」
細田を見上げている赤星も大きく頷く。細田は歪んだ笑みを浮かべた。
「‥‥ありがとう‥‥。でも、もう、事故の件を片づけてもダメなんだ‥‥。一つ言うことを聞いてしまったら、あとは‥‥」
「確かに難しい問題だが‥‥」
黒羽が呟く。赤星がとんと立ち上がった。
「でもなんか考えてみようぜ」

細田の顔が消沈したものから急に心配げなものにかわった。
「ダメだ。君達が首を突っ込むようなことじゃない」
「大丈夫、大丈夫。警察に怒られるようなことはしないから‥‥」
赤星があっけらかんと答えたが、細田の声は大きくなった。
「そういう問題じゃなくて! 君達の身に何かあったら‥‥」

赤星と黒羽はちょっと顔を見合わせると、どちらからともなく微笑んだ。
「大丈夫です。オレ達だってそんなバカなことはしませんよ」
黒羽はそう言うと、きちんと姿勢を正し、丁寧に一礼した。
「急におかしなこと聞いてすみませんでした。ありがとうございました。ただしばらくはあんまり焦らないで、適当に誤魔化してみたらどうでしょう」
「え?」
「いきなり拒否したら、やつらまた家まで行って騒ぎそうだし。しばらくしたら出方が変わるかもしれないから」
「そうだね。そうしてみるよ」
黒羽はにっこり笑うと目顔で挨拶して踵を返す。赤星が軽く頭を下げると慌ててその後を追った。


「で、これからどうする?」
追いついた赤星がそう聞くと、黒羽がいきなり立ち止まり、くるりと向き直った。
「お前さんはここまでだ」
「へ?」
「オレが乗りかかった船だ。1人でやる」
「何言ってんだよ。俺だってもう乗ってるよ」
「じゃあさっさと降りるんだな。ケガするぜ」
「2人ならケガしないかもしんないだろ?」
「これは遊びじゃないんだ」
振り払うようにそう言った黒羽を、赤星がぎっと見据えた。
「いいかげんにしろよ。1人の方が都合がいいってんなら、理由を言え」

黒羽は相手の瞳を避けるように目を閉じた。いつも通り足手まといだと突き放せばいいのに、なぜか言えなかった。黒羽はふうっと溜息をつくと瞼を開けた。
「本当にケガしてもいいんだな」
「まあ、ヘタすりゃそういうこともあるかもな」
「‥‥わかった。その代わりオレの言うとおりにしてもらう。それがイヤなら終わりだ」
赤星がちょっと目をぱちくりしたが、こっくりと頷いた。
「いいよ。そうする。ただしあんたの言うことが納得できればだけど」

自分の表情を見せまいとそっぽを向いて歩き出した黒羽だが、また不審な気配を感じて振り返った。赤星がさもおかしそうな顔をして自分を見ていた。
「何がおかしい」
「いや。あんた、やっぱりヘンな人だなぁと思って」
「なら付いてくるな」
「ヘンでも、面白そうならいいよ」

なんなんだ、それは。
ヘンなのはどっちだと言いたかったが、延々と続きそうなので、黒羽は賢明にも次の言葉を飲み込んだのだった。


===***===

濱田事務所の人間はオールマイティに色々なことをこなした。ただしやるのは「ぎりぎり」なことだった。それの方が楽しいし実入りがいいからだ。

事務所に入ったばかりの下っ端たちが夜の繁華街でナンパの手伝いとジャマをして遊んでいた。路肩に車を止めて、通りかかった相手に声を掛けて相手を見つける。そんな通りはどこにでもある。だから何台かの車で乗り出して一番いいポイントを押さえ、金持ちそうな若造に貸してやる。女がひっかかった所で追加料金を請求すると結構あっさり払ってくるのだ。

「うまく話がついたみたいね」
高級な外車を囲み、全開になった窓のフレームを押さえて車中を覗き込むと、運転席の若者にそっと耳打ちする。
「成功したらショバ代は5倍になるんだけどさ」
茶髪にピアスの若者は不快さと怯えの入り交じった顔をした。この場所を譲るよと声をかけてきた時は1人だったのに、今は車の周囲に柄の悪そうな男が3人。仕方なく万札を数枚引っ張り出して差し出すと、にやりと笑ったチンピラがそれに手を伸ばした。

と、その手が別の手にぐっと掴まれた。
「相変わらずつまんないことをやってますね」
いつの間にか近寄ったのか、チンピラの脇に青年が一人立っている。開襟シャツと細身のボトムという無造作な服装だが、えらく端正な顔だちをしていた。
「てめえ何モンだ」
「公道で場所取りして、人から金巻き上げるなんて、良くない了見だなぁ!」
青年が大声でそう言った。周囲や向かいの駐車車両から頓狂な髪型の頭がいくつも覗く。
「てめえ、オレらに因縁つける気か?」

「ホントのことは因縁って言わねえんだぜ」
Tシャツにジーンズの男が輪の中に踏み出してきて先程の青年の隣に立つ。青年が憮然と言った。
「おい赤星。ここはオレの担当だ。引っ込んでろ」
「ずるいぜ、黒羽。相手が5人以上なら助っ人していいって言ったじゃん」
「3人しか居ないだろ」
「あっちから3人来るよ! 3+3は6!」

この場所で騒ぎを起こしたらカモが来なくなるかもしれない。だが濱田事務所の若造達は、こちらを舐めてかかっているガキどもに完全に頭に来ていた。
「やっちまえ!」


警察を呼ぼうとする人間などこの通りには誰もいなかった。6人のうち4人が動けなくなるのに1時間もかからなかった。そうして商売のジャマをしてくれた2人はさっさとどこかに消えてしまったのだった。

それを皮切りに、濱田事務所の若い連中は仕事の妨害を受けることが多くなった。公園通りでアメ車を止めて擦った車から修理代を取り立てていた連中は言わずもがな。アパートの住人を立ち退かせようとしていたグループは、アパートの隣の工事現場に持ち込んでいた大音量のスピーカーシステムを壊された。心付けを払わない飲み屋に交渉に行った連中は、店の看板を壊したところで逆にのされて警察に引き渡されてしまった。
警察に届けたらヤブヘビだし、相手はただのガキと思うと上にも言えない。こうなったら取る手は一つだった。


===***===

赤星と黒羽が医学部の奥、西都大学の北門を出た時はもうあたりは真っ暗だった。
「細田さんとこ、あのあとはなんも無いみたいんで良かったな」
赤星が小声で言い、黒羽も頷いた。
「まあな。こっちのジャマが効いてるならいいけどな」
2人は道を横断し、ここ数日のパターンで西都大学のグラウンドの中に入っていく。近道の為にここを通り抜けていくのは大学の人間だけではない。一応、無用の者は入構禁ずとなっているが、有名無実だ。とはいえこの時間はもう人気もなく、日中とうって変わって物寂しい感じだった。

「しかし、お前、奴らがなんかやってるトコ、よく知ってるな」
「あいつら新興のチンピラで、このあたりじゃかなり嫌われてるらしいな。小太郎姐さんも面白がって色々教えてくれたから‥‥」
「小太郎姉さん? 女の人でそーゆー名前なのか? 変わった名前だなぁ」
「ばか。芸名だ。華家の売れっ子芸者だよ」
「げい‥‥って‥‥おい! 未成年がそーゆートコ行っていいのか!」
「失敬な。誰が店で知り合ったって言‥‥」

黒羽と赤星が立ち止まった。道端に並んで停まっていた乗用車からばらばらと男達が飛び出してきて2人を取り囲んだ。
「あっりゃ‥‥」
「とうとうお出でなすったか」
10人程いるようだがいちいち数えて居られなかった。何人かは顔を知っている。木刀を持っている男が4人居た

「面白ぇ‥‥」
赤星がそう呟いた。黒羽は背中で赤星が密やかに長い息を吐くのを感じた。肩越しに見やると赤星の口元に薄笑いが浮かんでいる。こういう時はなんのかんのと無駄口を叩くのが常だったのに、今日は違っていた。

赤星と男達のどちらが先に動いたのか判らなかった。2人の男が赤星に掴みかかったが、赤星はそれをやり過ごした。左側の男は膝裏を踏みつけるように蹴られて転倒し、右の男は空を掴んでつんのめる。男達の想像を超えた低姿勢とスピードだった。
赤星が一直線に向かった先には木刀を持った男がいた。木刀を振り上げた時には、その喉にブックバンドで束ねたノートの縁が水平に叩き込まれていた。男ががっと息を詰まらせ、赤星はあっさりと木刀を奪い取った。掴んだ木刀を持ち替えもせず身体の脇から無造作に後ろに突き出す。背中から襲いかかってきた男の腹にその先端が入り、男はたまらず踞った。

別の男が黒羽に向かって木刀を振り下ろした。黒羽が書類ケースでそれを受け止める。2人の間に遠慮会釈無く赤星が跳びこんできた。左手で短く持った木刀で男の脇腹を突き上げ、右手で男の手首を捻る。2本目の木刀が黒羽の手に渡った。

黒羽が手にした木刀をすっと正眼に構えた。感嘆するほどしっくりと馴染んだ佇まい。驚くかな。この学生にとって殴り合いは副業だったことが素人目にもよくわかった。背中合わせに立った赤星は相変わらず木刀の中央を掴んでいる。両手をだらりと下げた立ち姿には何をしでかすかわからない異様な威圧感があった。
だが男達のほうも引くわけにはいかない。一旦這い蹲った連中も復帰してくる。今夜はそれなりの覚悟があるようだった。


急に黒羽が赤星に何かを耳打ちした。
「え?」
黒羽が繰り返す。赤星は絶句して完全に黒羽の方に向き直ってしまった。黒羽がもう一度小さく呟くと、ずいっと前に出た。

手に入れた木刀をびゅっと振ってみせると、にやりと笑った。
「いいプレゼントだよ、濱田さん。これがあればオレ一人でも十分そうだ」
男達にざわりと怒りが走った。
「これだけ雁首揃えて返り討ちじゃ、いい笑いモノだろうな。明日が楽しみだぜ!」
黒羽は構わずにそう言い放つと、男達の中にだっと踏み込んでいった。

黒羽の言葉に固まっていた赤星が我に返り、舌打ちすると別の木刀男に向かって走った。とにかく相手の武器を取り上げるのが第一義であることに代わりはなかった。

2005/5/18

(前編) <中編> (後編) (戻る)
background by 雪月花(WebMaterial)